猫の文使い

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 涼しさを求めて窓を開けると爽やかな風と冷やかな月の光が入ってきた。

「きれいなお月さま」

 部屋の主人(あるじ)は黒猫を膝に置いて窓の外を眺めていた。気持ちよさそうに眠っているこの猫は数ヶ月前、部屋の軒下で震えていたのを主人が拾い上げたものである。猫はよく懐き常に主人の傍らにいた。

 猫を撫でながら月を愛でている主人の耳に突然

「曲者、待て!」

という声が入って来た。

 驚いた主人が窓を閉めようとした瞬間、突然、男が飛び込んできた。

 予期せぬ出来事に主人は身動きが出来なかった。

「不味いことになった」

「夫人の部屋に入ってしまっては…」

 外から曲者を追って来た男たちの戸惑ったような声が聞こえてくる。

「ああ…」

 夫人は悲しげな声を上げた。見知らぬ男と同室に居ることは士大夫女性にとってあってはならないことだった。彼女は既に死んだも同然の身になってしまったのだ。

「ここで生命を絶たねば夫にも家族にも迷惑が掛かる…」

こう思った彼女は身に着けていた銀粧刀を手にした時、黒猫が男に飛び掛かろうとした。その瞬間、燭台が倒れ男の裾に火が付いた。

“さあ逃げるのです”

 燃え上がる火をぼんやり見ていた夫人の耳に声が聞こえた。我に返った夫人は、猫が部屋の戸の側にいるのに気付いた。

“早く!”

 夫人が立ち上がると猫は走り出した。彼女も後を追った。何も考えず猫について行く夫人は屋敷を出て、いつの間にか山道に入った。月明かりがあるため、周囲も何とか見え、猫を見失うこともなかった。

 やがて前方に明かりが見えた。猫と夫人はそちらに急いだ。

 一軒の家の前に着くと夫人は安堵したのか気が抜けたようにその場に倒れた。


「気が付いたのね、良かった」

 夫人の視界に老婦人の顔が現れた。と同時に枕元で猫の鳴き声がした。

「昨晩遅く、外で猫の声がやたらにしたので戸を開けてみたら奥方さまが倒れてらっしゃったのですよ」

 老婦人は言葉を続けた。

「何か事情があるようだね、奥方さえ宜しければ暫くここにいればいい」

 外から戻った老人が言った。

 行き場のない夫人は老夫婦の言葉に甘えることにした。


 夫人の部屋から出た火は何とか消され、焼け跡からは曲者の死体のみ発見された。

 家族は夫人は既に自害したと見做し葬儀を行った。夫の進士は遺体を引き取りたいと思い、あちこちを訪ねまわったが、それらしき死体は見つからなかった。

 もしかして生きているのではないか、生きているのなら再び共に暮らしたいと思い、再度、各地を訪ねた。


 老夫婦のもとに身を寄せた夫人は少しずつ体調を回復した。そして、老夫婦の手伝いも少しづつするようになった。

 老人は書堂(寺子屋)を運営し、村の子供たちを教えていた。老婦人も家事のかたわら村の女の子たちに文字や刺繍の手ほどきをしていた。二人は貧しいが士人層なのかもしれない。

 夫人も体調が良くなると老婦人を手伝った。子供たちに教えるのは意外と楽しいことだった。

 老夫婦との生活は穏やかなものだった。二人は夫人にこれからも共に暮らすことを望んだ。それは夫人も願っていたことだった。

 ただ、時々、夫のことを思うと切なくなった。夫は恐らく後添えを得て幸福に暮らしているだろう。もう自分のことなど忘れているかも知れない。それは仕方のないことだけどやはり悲しかった。

“手紙を書けば?”

「えっ」

 黒猫が夫人の膝に乗った。

“届けてあげるから”

 夫人は猫を見る。

―そうだ、自分が生きていることだけでも知らせよう。

 彼女はさっそく筆をとった。今の自分の生活について書き、夫の健康と幸福を願う言葉で締めくくった。

 夫人は手紙を畳み小袋へ入れた。そして猫の首にしっかり結んだ。

「お願いね」

 こう言いながら夫人は猫を外に出した。


 進士は重い足取りで自宅に向かった。数ヶ月の間、津々浦々歩いてみたが遂に夫人は見つからなかった。

 もう諦めて親の勧めるまま後妻を迎えなくてはならないのか……。

 重い気分で自宅の門を入ろうとした時、足元に何かがまつわりついているのを感じた。

「お前は夫人の猫ではないか」

 進士は猫を抱き上げると首に小袋が結ばれているのに気が付いた。進士はさっそく解いてみると夫人の文が入っていた。

「生きていたのか」

 文を読み終えた進士は思わず叫んだ。そして猫に向かって

「夫人のところへ案内せよ」

と命じた。


「あら、猫ちゃんのお帰りね」

 外から聞こえる猫の鳴き声に応えるように老婦人がいうと夫人は立ち上がり戸を開けた。

「あっ…」

 戸の向こう側に立つ人物を見て夫人は声を上げた。

「久しぶりだね」

 進士は嬉しそうに言った。

 この様子を見ていた老婦人は、夫婦が再会したのを悟った。そして、

「二人とも中にお入りなさい」

と家の中に促した。

 部屋の中で二人きりになると

「会えて嬉しいよ。また二人で暮らそう」

と進士がまず口火を切った。

「それは無理です。あなた様は後添えを得て……」

「財産や家のことは全て弟に譲り渡すつもりだ。それゆえ、今の私には夫人しかいないのだ…」

「……」

 夫人が黙っていると老夫婦が部屋に入ってきて言った。

「こうして再会出来たのもそれだけ縁が深いのだろうな。この先も共に末永く共に暮らせばよかろう」

 老人が言うと老婦人も

「そうですよ。そして出来たら二人でここで暮らしてほしいわ」

と付け加えた。

 結局、進士と夫人は老夫婦と暮らすことになった。そして、進士は老人と共に書堂で子供たちを教え、夫人は以前と同じように老婦人の手伝いをした。

 “家族”となった四人は仲良く暮らし、老夫婦が亡くなると進士と夫人が書堂を引き継ぎ、村の子供たちを教えるのだった。

 貧しいが、二人は共に白髪になるまで幸福に暮らしたのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫の文使い 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ