第9話

 1年振りのあなたに夢中になって、抱いて、抱いて、抱いて。

 

 

 俺は古いその家を後にした。

 

 

 

 

 

 表札には『佐倉さくら』の文字。

 

 

 佐倉さんの家の、さくらの木の化身。

 

 

 

 

 

 夕刻の、茜に染まる空の下。

 

 

 佇む、咲き急ぐさくらの木を見上げて、俺はその樹を抱き締めた。その樹にキスをした。

 

 

 

 

 

 ふわりと触れる、頬に、風。

 

 

 

 

 

 あなたが、笑ってる。

 

 

 

 

 

 そんな気が、した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠回りをして、じいちゃんと二人分の弁当をスーパーで買って、茜が西に燃え残った、藍色がすべてを支配する寸前の空を見ながら、俺は歩いた。

 

 

 

 

 

 さくら。

 

 

 

 

 

 やっぱりまだこの辺のはちらほら咲いてるだけで、あの、佐倉さんの家のさくらの木みたいのは、見当たらない。

 

 

 

 

 

 ひとりだけ、咲き急いで、あなたは。

 

 

 俺に会いたいと本当に、思ってくれてたの。

 

 

 

 

 

『すき』

 

 

 

 

 

 柔らかく、切なく喘ぐ声を思い出す。

 

 

 

 

 

 俺も好き。あなたが好き。

 

 

 

 

 

 春。

 

 

 

 

 

 この季節だけにしか会えない、この季節だけにしか思い出せない、愛しい愛しい、俺の恋人。

 

 

 さくらが散る頃に忘れてしまう、それでも愛しい、俺の恋人。

 

 

 

 

 

 胸の奥が、ぎゅってなる。

 

 

 

 

 

 たった今まで側にいたのに、もうあなたに会いたい。

 

 

 たった今まで抱いていたのに、もうあなたを抱きたい。

 

 

 抱き締めて、キスをして、身体を重ねて。

 

 

 

 

 

 ずっとあなたと居たい。

 

 

 あなたと共に居たい。

 

 

 

 

 

 会えたから。今年もこうして会えたから。

 

 

 これ以上咲き急ぐのは、やめて。

 

 

 お願いだから。

 

 

 

 

 

 散らないで。

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