最期のありがとう

箕田 はる

最期のありがとう



「猫の手も借りたいって言ったのは、お前じゃないか」

 憮然とした顔で目の前に立っていたのは、自分をタマだと言い張るコワモテのおっさんだった。下手すればヤクザと間違えられそうなぐらいの鋭い目つきと、組んでいる腕の筋肉の盛り上がりが、猫とはかけ離れている。唯一似てる点と言えば、男の茶色の短髪が、茶毛のタマと同じ色合いぐらいなものだった。

「あなたは誰なんですか? タマなはずがないじゃないですか」

 タマはうちで飼っている雄猫だ。確かに野良出身なだけあって、目つきが悪いし、愛想も良くない。それでも猫であることには変わりなくて、猫好きの僕からしてみれば、それも愛嬌の一つだった。

 だけど、今目の前にいるコワモテのおっさんは、ただのヤクザにしか見えない。

「タマだって言ってるだろ。お前は飼い主の癖に、自分の飼い猫もわからねーのか」

 呆れたように溜息を吐く、自称タマ。もしかしたら、この人は薬でもやってるんじゃないだろうか。

 どうして僕の部屋にいるのかは知らないけれど、とにかく助けを呼ぼうとスマホを探す。

「お前のかーちゃんは、光枝。俺のことをタマちゃんタマちゃんって呼ぶ。雄なのにちゃんはねーだろ。毎晩変な白いやつ顔につけて、鼻歌がうるさいんだよ」

 僕は動きを止めて、自称タマを見た。

「お前のとーちゃんは康夫。やたら俺に足の匂いを嗅がせたがる変態。俺が嫌がるのを見て、お前も随分と楽しそうじゃねーか」

 その臭いを思い出したのか、男があからさまに顔を顰める。

「お前は優成。俺が日光浴してるときに、顔を埋めて邪魔しに来やがる面倒くさい奴。腹のニオイなんか嗅いで、何が楽しんだよ」

「……本当にタマなのか?」

 うちの家でのタマに対する扱いを述べる男に、少しだけ信憑性が生まれ始める。にわかには信じ難いが、周囲の目を憚って僕が猫吸いをするのは誰もいない時に限っていた。

 この男の腹に顔を埋めていたのは複雑だけど、猫のお腹の匂いはクセになるのだから仕方がない。

「だから、タマだって言ってんだろ。俺の飼い主は頭まで悪いのかよ」

 ウチの猫は口が悪いようだと、僕はへこむ。それでも猫なのだから、仕方がないと思えていた。日頃から冷たい目で見られていただけあって、きっと見下されているのだろうと分かっていたからだ。だけど、その現実を突きつけられるのは、正直のところショックでもある。

「まぁー、そんなことはどうだって良い。俺には時間がないんだからな」

 そう言って、タマ(?)が伸びをする。筋肉質な体がシャツ越しにも分かる。

「時間がないって?」

「俺だっていつまでも、人間じゃあいられないんだ。人生の最後に一度だけ、人間になれるつーから、お前のためになってやったんだよ」

「ちょっと待って、どういうことだよ! 人生の最後って」

 聞き捨てならないセリフに、僕は食い気味に問う。さっきまでは疑っていたけれど、本当にタマだとしたら、邪険にはできない。

「ギャーギャーうるせーな。人生の最後なんだから、死ぬってことに決まってんだろ。人間だっていつかは死ぬんだから、何も驚くことはねーじゃん」

 さも当たり前の事のように、タマは言う。僕はショックのあまり、その場にヘナヘナと座り込んだ。

「おい、どうしたんだよ? まさか、死ぬのが怖いのか?」

 僕はそれには答えず、ただ項垂れた。

 猫の手も借りたいという発言のせいで、タマの寿命が縮んだかもしれないと思うと、罪悪感で吐きそうにすらなっていた。

 それも僕が親に言われて草むしりをさせられている時に、タマが呑気に寝ているのを見て、妬みから言った冗談だったのだ。

 人間になる為に寿命を削ったかもしれないタマの情の深さを前に、僕の目からは涙が溢れていた。

「なんだよ。なんで、泣いてんだよ」

 狼狽えるタマに対し、僕は「タマ……ごめん」と呟く。

 卑怯だけど僕は、本当のことを言えそうもなかった。冗談だっただなんて、命を削った相手に言えるはずがない。

「タマ、何がしたい? 僕は君のしたいことをしてあげたいんだ」

 僕はタマを見上げて告げる。精一杯の償いとして、残りの寿命を悔い無く過ごさせてあげたかったのだ。猫として無理でも、人間としての楽しい思い出を作ってあげたい。

「お前は何を言ってるんだ? 俺の手を借りたいほどに忙しいんだろーが。こっちを気にしてどうする」

 タマが剣呑とした顔で言う。すごく怖い。猫の時から迫力があったが、人間になったらなったで、その威力は増していた。

 僕は怯えながらも、必死で頭を働かす。

「僕はタマと一緒に過ごしたい。最近は忙しくって、構ってやれなかったし」

 猫に戻った後、どれぐらい一緒に過ごせるのだろうか。考えるだけで、涙が滲んでくる。

「別にこっちは、構って欲しいだなんて思ってねーよ。お前が構いたいだけだろ」

 呆れたようにタマが言うも、「でも、どうしてもって言うなら、付き合ってやってもいい」と付け足す。

 さすが猫なだけあって、ツンデレのようだ。

 僕は袖で目元を拭いつつ、少しだけ笑った。



 人間になったら何がしたいか、と僕が訊ねるも、タマは別に何もと言って、答えにならなかった。

 僕が困り果てた顔をすると、「じゃあ散歩」とそっけなく言われる。

 そんなんで良いのか、とも思ったけれど、猫なのだから仕方ないと諦める。そもそも、連れ回すには、見た目がとてもネックだった。

 中年のヤクザ風の男と、大学生の僕とでは、周囲の目を引くことは間違いないからだ。

 あいにく両親が仕事で不在だったから良かったものの、最悪の場合警察を呼ばれていたかもしれなかった。

 僕は出来るだけ目立たなくするために、帽子とマスクをタマにつけさせる。変装によって、さっきよりはまだマシになった。

 それから僕たちは家を出ると、足の向くまま気の向くままに進んだ。

「いつまで人間でいられる? 猫に戻ったら、どれぐらい生きられる?」

 僕は気になっていたことを一気に聞いた。

 だって、不安で仕方がなかったのだ。一縷の望みにかけて、家を出るときに一応タマの姿を探してもみた。だけど、どこにも姿がなかった。拾って家で飼うことになって以来、一度も外に出してないのだから、勝手に出たとも考えにくかった。

 隣にいた人間のタマの視線が痛かったけれど、そうせずにはいられなかったのだ。

 そして今は、その現実を受け入れつつあった。

「一気に聞くなよ。せっかちだな」

 タマが悪態を吐く。

 僕たちの微妙な空気とは対照的に、春の陽気を感じさせるような桜並木が見えてくる。

 左手には土手があり、川が流れていた。

 ひらひらと舞う美しい花びらに、本来であれば胸が弾んでいたはずだ。

 だけど今は、タマの寿命で頭がいっぱいだった。

「人間の姿はもって数時間ってとこだな。戻たら、後数日ってところじゃねーか」

「数日だって! なんとかならないの?」

 僕は驚いて声を上げる。近くにいた家族連れが、驚いた目でこちらを見た。

「ならねーよ。そもそも、俺は先が短いのが分かっていたから、人間になったんだ。お前が何をそんなに興奮してんのかわかんねーけど、寿命は変えらんねぇよ」

 本当に分からないといった様子のタマに、僕は虚しいような悲しいような胸の痛みを感じていた。猫だから、死に対しての感情が人間と違うのだろうか。

「僕はまだ、タマと別れたくなかった。もっと、一緒に過ごしたくって……」

 またしても涙が込み上げてくる。外だからと我慢しようとすると、今度は鼻水が垂れてきてしまう。

「……別に俺だって、好きで死ぬわけじゃねーよ。面倒くさいし鬱陶しいけど、お前達のこと嫌いじゃねーし」

 タマがしんみりとした感じで言ったせいで、我慢していた涙が溢れ出す。慌ててハンカチで涙と鼻水を拭った。

「ここだよな。俺たちが初めて会ったのは」

 僕の胸中はお構いなしに、タマが土手を下りていく。それを僕は、慌てて追いかける。

 川縁の所でタマは立ち止まり、地面を見つめていた。

 五年前に、僕はここでタマを見つけた。子猫にしては大きいサイズの猫だった。随分と衰弱しているようで、ここで倒れているのを発見し、当時中学生だった僕は急いで家に連れて帰ったのだ。

「あの時、俺はもうダメだと思ったんだ。縄張り争いで負けて、フラフラになって……あの頃はまだ、若かったからな」

 そう言って、タマが笑う。

「だから、お前に助けられて、こんなおっさんになるまで生きられたんだ。ありがとな」

「なに言ってんの。あ、そうだ、病院に行こうよ。そしたら、助かるかもしれない」

 僕は諦めきれなかった。だって、昨日までは普通に元気そうだったのだから。

「勘弁してくれ。俺はあそこが嫌いなんだ。それに自然に死んでこそ、動物らしいってもんだろ」

「でも――」

 僕はそこで言葉を呑み込んだ。自分の人生なのだから、最期は自分で決める。それが彼の望みならば、僕のわがままを通すわけにはいかないだろう。

「なら、いなくならないで。最期はちゃんと傍にいさせて」

 猫は死期を悟るといなくなるという。そんな寂しい最期は迎えて欲しくなかった。

「分かった。ちゃんと、見送れよ」

 タマはそう言って笑った。



 タマが人間になってから、猫に戻った三日後。宣言通りにタマは突然、眠るように逝ってしまった。

 人間から猫に戻った姿は見ていないけれど、猫に戻ったタマがやっぱり人間になっていたのだと僕には分かった。

 以前までは僕に甘えることがなかったタマが、僕の傍で昼寝をしたり、まるで話かけてきているように見上げることが増えたからだ。

 別れの日には、ふらつく足取りで僕の前に来て、前足で僕の足を叩いた。その行動で彼が教えてくれたのだと分かり、僕は涙をボロボロ流しながら、ゆっくり横たわった彼を撫でていた。

「ありがとう。本当にありがとう」

 彼が目を閉じるその瞬間まで、僕はずっと言い続けていた。

 そんな時、ふいに猫に戻る時にタマが言っていた言葉が、聞こえたような気がした。

「良い人生だった。拾ってくれてありがとな」

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