第29話
航平さんの手と絡ませたわたしの指先がひくりと動いた。
静かだけれど、その先を予感させる言葉だった。今日は着替えも化粧品も持っていない。頭に思い浮かんだのはそんな事実だった。
「今日は……ちょっと……。準備もしてきていないですし」
「必要なものがあればコンビニ寄るよ」
……ですよね。いい年なのだから、この時間にお茶を飲むためだけに航平さんが部屋に誘っているわけではないことくらい、わたしでも想像がつく。
わたしは目線を彷徨わせた。今日は本当に、単なるお出かけのつもりだったのだ。
このまま航平さんのお部屋訪問するには心が追い付かない。ううん、心の準備ができていない。
わたしにとって、初回のアレはノーカウントだ。だって覚えていないから。
「あ……明日は、予定があって」
咄嗟に口から言葉が出ていた。
歩菜ちゃんの結婚お披露目会のレンタルドレスの下見は別に明日でなければならないということでもない。
でも……。
このまま進んでしまっていいのかどうか。一気にカレカノとしての距離を縮めるには、まだわたしは彼と付き合うことに二の足を踏んでしまう。
そういえば、結局結婚式を匂わせて航平さんをドン引き……作戦は出る幕がなかったことを思い出した。
「ちょっと今日は急だったね」
わたしの躊躇う表情に、航平さんが微苦笑を浮かべた。彼の声のトーンは直前のものと変わらなくて、わたしはホッとした。
航平さんの誘いをあからさまに断った自覚があったから、機嫌を損ねてしまったらどうしようと危惧したのだ。
「俺はいつでも美咲ちゃんを大歓迎しているから。寄りたくなったらいつでも言って」
地下鉄駅に入る前、裏路地でふいに航平さんが屈んだ。
それから、彼はわたしの唇にふわりとキスをした。
突然のことにびっくりする。
「これだけ、許して」
もう一度航平さんが身をかがめた。
唇に触れるだけのキスが落ちてくる。わたしは慌てて目をつむった。
本当に、他愛もない触れ合いのキスはあっけなく終わって。
離れていく唇をぼんやりと見つめながら、わたしはほんの少しだけ喪失感を覚えた。今しがた得た温もりが名残惜しいような気がして、その考えにうろたえた。
路上だとか、誰かに見られているかもしれないだとか、もっと意識しないといけないことはたくさんあるはずなのに。
あっけないキスの終わりに気を取られてしまう。
お行儀のよいキスのあと、航平さんはわたしと手を絡めて先ほどよりもほんの少しだけゆっくりとした足取りで地下鉄のホームへ向かった。
朝から妙に落ち着かない気分だったわたしは、時計がお昼を回ったことを確認すると即座に立ち上がった。ランチトートの中にはお弁当箱が入っている。
わたしはつい辺りをきょろきょろしてしまう。なんとなく、注目されている気がして。自意識過剰なことは分かっている。
お昼休みに突入したオフィスは途端に賑やかになり、誰もわたしの一挙手一投足など気にも留めない。
わたしは一呼吸吐いてから歩き出した。すると、同じく外に向かう鈴木さんが目に入った。
「お疲れ様、鈴木さん」
「……」
彼女は艶やかなピンク色の唇を引き結んだまま、ぷいとそっぽを向いて歩くスピードを上げた。
「なーにあれ。感じ悪っ」
「うわっ」
後ろから突然声が聞こえてきて、小さく飛び上がってしまった。
さっと横に並んで、一緒に歩き出したのは小湊さんだった。今日は午後から取引先に出向いてミーティングだと予定表に書いてあった。トートバッグを肩に掛けているからお昼を食べがてらそのまま出るのだろう。最近小湊さんは一人で取引先に外出する頻度が増えつつある。
「同僚、ていうか先輩が話しかけているのに返事もしないとか。ありえないんだけど!」
一階へ向かう傍ら、小湊さんがぷりぷり怒っている。
それというのも、わたしと航平さんの交際がバレてから、鈴木さんがわたしを無視するようになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます