第26話
「ごめんね。電話くれた?」
『はい……ええと……ご報告したいことがありまして。いえ、メールでもよかったんですけど。わたし慌てすぎていたようで……』
「何?」
神妙な美咲の声に航平は内心ドキリとしつつも、どうにか平静に相槌を打った。
報告とは一体なんだろう。
まさか別れ──……。
『実は……昨日の……密会を会社の人に見られてしまっていたようで……』
密会。何やらいい響きだ。などと不埒なことを思い浮かべていると、昨日の家電量販店での買い物デートを同僚に目撃されてしまい、会社で暴露され、付き合っている事実がマッハでオフィス内を駆け巡ったと、若干恨みのこもった声で聞かされた。あんな手の繫ぎ方をされたのでは言い訳のしようもなかったとのこと。
「そっか。ごめん。配慮が足りなかったね」
航平は神妙な声を出したが、内心では美咲の同僚に対してグッジョブと拍手喝采した。これで自分からそれとなく漏らして外堀を埋める手間が省けた。これからはもっと大っぴらに待ち合わせもできるし、なんなら背中に手を回せるし、抱き寄せることもできる。
『恥ずかしすぎます……。たくさん質問されましたし。しばらくは会社近くでの密会は駄目です。また目撃されたらと思うと……』
「バレちゃったものは仕方がないから、堂々としていれば大丈夫」
尚も恥ずかしがる美咲が可愛すぎる。電話越しではなく、できればすぐ側で慰めたい。航平に本日の出来事を話した美咲は幾分落ち着いたらしい。
『お仕事でお疲れのところ、急に電話をしてしまってすみませんでした』
「いや付き合っているんだから、これからも気兼ねなく電話してきて」
『うぅ……頑張ります』
その後、他愛もない話を少ししてから「おやすみ」と言って通話が終了した。
すると新着メッセージが浮かび上がる。
『ケチ~。可愛い弟ともっとお話ししたいとは思わないのか』という洋平からのものだった。
まったく、せっかくいい気分だったのにと航平は既読スルーを決め込んだ。
昔からこの弟に関わると碌なことにならない。せっかく美咲とのデートが控えているのだ。航平は気分を変えるべく初デートに向けたシミュレーションに励むのだった。
*
忽那……いや、航平さんとの築地おでかけの日。
今日は雲は多いけれど雨にはならず、気温も三十度までは届かない、それなりに秋めいた陽気。
築地駅に到着したタイミングでスマホにメッセージが届いた。
忽那……いや航平さんも到着したらしい。
苗字で呼ぶと名前で呼ぶように練習させられるため、わたしは心の中でも航平さんと呼ぶよう心掛けている。彼の目の前で名前を呼ぶ練習……心臓がいくつあっても足りない。
だったら、俳優の名前を呼ぶくらいの感覚にしてしまおうと思ったのだ。
要するに慣れの問題。これはわたしにとってもいい訓練だ。
「あ、美咲ちゃん」
築地駅から地上出口を上ったところで航平さんと落ち合った。薄手のシャツに濃い色のジーンズというカジュアルな装いをした彼を目にした途端、心臓の音が速くなった気がした。
私服姿はやっぱり新鮮で、どこに視線を合わせていいのか分からなくなる。
「お、お疲れ様です」
わたしはつい会社と同じ挨拶をしてしまう。
「今日の格好、可愛いね」
「……ありがとうございます。こ、航平さんの私服……も素敵です」
「美咲ちゃんの隣に並ぶから、頑張って若作りしてみた。変じゃないかな?」
「まさか! とってもよくお似合いです!」
むしろ、わたしのほうこそ航平さんの隣を歩いて大丈夫でしょうか。そんな心地だ。
今日を迎えるにあたり、わたしは数日前からコーディネートについて悩みに悩んだ。一人では抱えきれなくて、一花ちゃんに相談すると『つか、フラれるのが目的でしょうが。適当でよし』とのメッセージが返ってきて、余計に混乱した。
そして考えた結果、ネイビーの小花柄のブラウスにベージュピンクのワイドパンツという、甘くもないけれど、地味すぎもしない格好に落ち着いた。トップスが濃い色なのは、醬油が撥ねても目立たない理由だからだ。
「あ、そうだ。これ、今日の記念に」
おもむろに航平さんがわたしに小さなショップバッグを手渡した。
「記念?」
「そう。初デート記念」
わたしが首を傾けると、航平さんがにっこり口角を上げた。
「本当はお店についてから渡そうとも思ったんだけど、寿司屋で渡すのも格好がつかないかな、って」
わたしは航平さんと小さなショップバッグを交互に見た。ブランド名が書かれた光沢のある紙バッグの中には、あきらかに光ものが入っていそうな正方形の箱がちょこんと鎮座している。
「ええと……?」
「あとで、開けてみて」
航平さんはとても機嫌がよさそうだ。
おかしい。わたしはまだ光ものをねだっていないし、ティファニーにもカルティエにも連れていっていない。ましてや指輪のサイズをさりげなく教えてもいない。
付き合ってすぐにあれこれ光りものをねだる子は引かれると、ネットの記事には書いてあったはず。
わたしはまだ実戦はしていないのに、どうして。
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