第25話

 思えば、あの噂話が引き金だった。あれを真に受けて、この人ならわたしの処女を押し付けても重たく受け取らないのではないかと考えたのだ。だとすると小湊さんが運んできてくれた縁と考えることもできる。


「わたしは応援しているからさ。何かあったら、相談してね」


「ありがとうございます」


「もちろん、恋バナと惚気も期待しているけど」


「惚気なんて言いません!」


 小湊さんの声は優しくて、それだけでほろりとしてしまう。


 更科課長が戻ってきたため、こそこそとしたやり取りはそこで終了になった。同じ課の彼女が味方だと思うと心がいくらか楽になった。



 その日の就業時間後、わたしは待ってましたとばかりに好奇心を隠しきれない女性陣に取り囲まれた。


 わたしが四葉不動産本社勤務のエリートを落とした(断じて落としてはいないけれど)という事実はあっという間に日比谷オフィスを駆け巡ったらしい。それにしても早すぎだろう。


 意外だったのは思っていたほど同僚たちが攻撃的ではなかったこと。


 鈴木さんは昼休みと同じくむくれていたけれど、他の同僚は「仕事で直接かかわってないわたしたちが忽那さんをどうこうできるとも思っていなかったしね~。あれはイケメン鑑賞枠だよ」と笑いながら話してくれた。


 詰んだと思っていたわたしのオフィス生活は、どうやら延命できたらしい。



 航平は部屋でタウン誌のページをめくっていた。


 週末デートに備えて事前調査である。ネット情報もいいけれど、やはり自分の世代はまだ紙に愛着がある。ちょうど『東京ウォーキング』という雑誌の特集が築地で、会社帰りに即買いしたのだ。


 未だに戸惑っている美咲には悪いけれど、猛攻の手を緩めるつもりはない。付き合い始めてからは毎朝毎晩、おはようとおやすみのメッセージを入れている。もちろん会う時間もしっかり捻出するつもりだ。


 ここまで来るのに一年以上を費やしたのだ。


 最近では足繁く日比谷に通う航平に対して上司から「もっと部下に案件を任せろ」と言われる始末だった。確かにその通りではあったので、今後はあまり美咲のいるオフィスに顔を出すことができない。


 同じプロジェクトチームの後輩がミーティングに参加することになるだろう。その前に美咲を捕まえることができて本当によかった。


 当日はスムーズに店に案内ができるように、明日の帰りは築地に寄り道しようか。目星をつけている寿司店はランチの予約は受け付けていないのだ。航平の最寄り駅から築地へは地下鉄で数駅。


 雑誌の特集記事を頼りに航平が土曜日のプランを練っていると近くに置いてあったスマホが振動した。


 そういえば今日は何度か着信があったはず。航平はスマホを手に取った。


『もしもし、兄貴?』


 通話の相手は弟の洋平である。


『兄貴、昼間にも電話したんだから折り返しかけてよ』


「昼間って、まだ仕事中だろ。だいたい、なんだって俺に電話をかけてくるんだ」


 航平はとげのある声を出す。二つ年下の洋平は現在海外在住である。駐在や留学でもなく、ある日会社を辞めて、ふらりと旅に出かけた。本人は大真面目なのだが、両親、特に母には奇行に映るようで、話せば喧嘩に発展する状況が続いている。


『だって、親父と母さんと話してもいつも堂々巡りだし』


「そりゃ、いい年してほっつき歩いてればな。今、どこにいるんだ?」


『カンボジア』


「案外近いな」


『ここ数か月はずっとカンボジアだよ』


「腰据えるのか?」


『いいや……。それよりも、兄貴って今、どこに住んでいるの? 今、東京だったよね?』


 会社の海外研修制度で航平がアメリカとシンガポールに住んでいたのは数年前までのこと。現在は東京オフィス在籍である。


「そうだよ」


『四葉不動産の本店勤務なんだから、東京のど真ん中にでも住んでいるんだろ? カンボジアの名産送ってあげるから、住所教えて』


「いやだ。嫌な予感しかしない」


『ええ~、いいじゃん。ケチ』


「ケチで結構。土産も何もいらないから切るぞ」


 航平はぷつりと電話を切った。


 唐突すぎる弟からの連絡など、嵐の前触れである。基本甘ったれの弟が殊勝に名産品を送るとか、槍が降ってきそうだ。もしかしたら秘境の特産品か何かを大量に買わされて、この部屋を物置代わりにする魂胆かもしれない。


 電話を切ると不在着信の通知が浮かび上がった。なんと美咲からである。


 洋平のせいで美咲からの電話を取り損ねたではないか。


 航平は即座に折り返し彼女に電話をかけた。数コール待つと美咲と繫がった。

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