第19話

 最初はテナント推進課に所属する一社員くらいにしか思っていなかった。何度か接していくうちに、きめ細やかな仕事ぶりに感心することが多くなっていった。


 資料一つとっても美咲の作成したものは丁寧で見やすく、来客応対時の落ち着いた態度にも好感が持てた。


 なぜだか航平の周りには高い声を出しつつ過剰ともとれるくらい、こちらの世話を焼きたがる女性社員が多く集まってくる。取引先やグループ会社でもそれは顕著だった。


 そんな中、常に一歩引いた姿勢の美咲の態度に好感を持つのは必然だった。

 更科もテナントの要望やささいな不満を聞き出すことに長けている美咲を重宝し、評価していた。


 いつしか航平は彼女のことをもっと知りたくなり、気が付いたら恋に落ちていた。


 仕事での接点が限られるため、後輩に任せておけばいいようなちょっとしたミーティングにも顔を出し、そのおかげで仕事を溜め込むことにもなったのだが、それでも美咲に会えるほうが重要だと日比谷のオフィスに通いつめた。


 自宅の最寄り駅で下車した航平はスマホを取り出し、美咲に電話をかけた。先週末に番号を聞き出したのだ。コール音を待つこと数回。


『も、もしもし……?』


 少しだけ固い声が耳元をくすぐった。


「こんばんは、美咲ちゃん」


『こ、んばんは……』


 航平は無意識に口元を緩めた。

 仕事終わりに美咲の声を聞くためだけに電話をする。これこそ彼氏の特権である。


「今、最寄り駅に着いたところ。美咲ちゃんは?」


『今日は定時であがったので……部屋でのんびりしていました』


 航平は脳内で、部屋でくつろぐ美咲を思い浮かべてみる。


 部屋着はどんなものを着ているのだろうか。九月とはいえ、まだ暑いからショートパンツだろうか。生足を想像した航平は内心悶絶した。冬場はやはりもふもふしたさわり心地の部屋着がいい。断然にいい。


 油断すると顔がにやけてしまい、慌てて平静を取り繕う。夜デレッとした顔で歩いていたら通報されてしまう。


『えっと……忽那さん。お仕事お疲れ様です』


「航平」


『え?』


「付き合っているんだから、下の名前で呼んで?」


『っ……そそそそれは……あの……ハードルが高い……です』


 航平がおねだりをすると、すぐ近くから息を吞む小さな音と、それからとても慌てた声が聞こえてきた。


「ハードルなんて高くないよ。練習だと思って、試しに呼んでみて?」


『え、ええと……』


「美咲ちゃん」


『うぅ……こ、航平……さん?』


(やばい。耳元で航平さんとか。死ねるレベルで萌える)


 こちらからねだっておきながら、その破壊力にやられた。耳の近くで緊張を漂わせながらも、必死になってこちらの名前を呼ぶ彼女。なんだそれ。可愛すぎだろ。


「もう一回呼んで?」


『だ、駄目です。は……はずかしい……っ』


「じゃあ今度会ったときにたくさん聞かせてもらう」


『っ……!』


 美咲のまたもや息を吞む音が聞こえた。


 歩きながらしゃべっていると、航平の住むマンションが見えてきた。大手町のオフィスから地下鉄で数駅、中央区のとあるマンションの一室が現在の城である。朝ぎりぎりまで寝ていられるところが気に入っている。


「そうだ。今週の木曜、早く帰れそうなんだ。美咲ちゃん空いている?」


『ひゃぇっ!!』


「どこか飯でも行かない?」


『ええとですね……こ、今週はちょっと都合が……』


 航平が食事に誘った途端に美咲の声が裏返った。その反応に内心苦笑した。色々な段階をすっ飛ばして付き合うことをごり押しした自覚ならあるのだ。


「じゃあ、週末は?」


『と、友達と……約束が……』


「じゃあ、次の週のどこかで仕事終わりに一度会おうか。更科課長に、美咲ちゃんをあまり残業させないようにって念を押しておくよ」


『えぇぇっ! うちの課長に!?』


「あはは。冗談だよ」


『冗談ですよね……よかった……。あの、忽那さん。わたしたちのことは絶対に内緒にしていてくださいっ!』


 電話越しからものすごく焦った声が聞こえた。


「分かった。(しばらくは)内緒にしておく」


 二人の今後のためにも更科には早い段階で打ち明けておく必要がある。美咲に逃げられないようにするためには、秘密の関係よりも公にしてしまったほうがよい。


『お願いします』


「じゃあお願い事を聞いたかわりに、来週は絶対に待ち合わせしようね」


『……はい』


 じゃあまた連絡する、と言って航平は通話を切った。


(やっぱり美咲ちゃん、戸惑っているな)


 無理もないと思う。航平が勝負に出たあの日のことを、彼女はきれいさっぱり忘れているのだから。


 ずっと美咲に片思いをしてきて、どうにか距離を詰めたいと考えていた。


 暑気払いがあると聞けばいささか強引に参加を取り付けるほどに。しかし、肝心の美咲が欠席であの日ガッカリしたのは内緒だ。

 後日帰り道に美咲と偶然会ったのは僥倖だった。思いがけず美咲の誕生日を知れてケーキを食べて、まるでデートのようだった。


 会話の流れで、美咲がそろそろ結婚を考えていることを聞き出した航平はその場で告白をしてしまいたかったが、まったく男として意識されていないことにも気付いていたため、とにかく距離を詰めてしまおうと考えた。


 一度、飲みの席で打ち解け、次の約束を取り付ければあとは押すだけだ。どうにか彼女を懇親会に引っ張り出すことに成功し、たくさんのことが重なってお持ち帰りした。


 あの日のことを航平は鮮明に覚えている。彼女の声も肌も温もりも全部。


 ことが終わった直後、順番が逆になったが付き合おうと交際を申し込めば、彼女はこくりと頷いてくれたのだ。天国が訪れた瞬間だった。


 翌日、美咲に記憶がないことが判明し、航平は地の底に突き落とされた。


 だが、ここで逃してなるものか、と少々強引に彼氏の座をゲットした。


 どうやら美咲は、夢の中で航平と何か話していたことは覚えているらしい。


 とにかく、ここからだ。

 美咲が航平に慣れていないのならば、慣れてもらえばいいのだ。がっついて幻滅されるのは本意ではないので、しばらくは紳士でいるつもりではあるけれど。


 しかし、いつまでこの決意が持つだろう。一度彼女の肌を知ってしまった身としては苦行でしかない。


 今後の方針として、美咲に毎日電話とメールを入れまくって自分に慣れてもらう。航平はそう決意を固めた。


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