第18話



 あの日、最後二人きりで訪れたバーで。


 航平の想い人である真野美咲は少し酔ってはいたけれど、口調も仕草もしっかりしていた。


 ほんの少し潤んだ瞳と、隣同士に座るほどよい距離感。ためらいがちに彼女の指に触れると、美咲は少しの逡巡のあと、航平の指に触れ返してくれた。


 お酒の勢いを借りて美咲の内側に入りたいと、恋愛観などプライベートに関する話をしていたときのことだった。


「あの……ね。忽那さん……。わたし、実は……今まで男性経験がなくって。わたし、初めての相手は、忽那さんがいいです」


「……真野さん、酔っている?」


「いいえ?」


 一瞬、自分の頭の中身が具現化したのではないかと錯覚した。あまりにも航平にとって都合がいい言葉だったからだ。


 美咲は首を小さく振った。その頰がほんのりと赤く染まっている。


「やっぱり、駄目かな。この年で処女は重たいですよね」


「いや、そんなことないよ。今まで大切に取っておいたんだろう? それを、俺がいただいてしまっていいの?」


「うん。忽那さんがいい」


 美咲は子供のようにゆっくりと頷いた。あどけない仕草と、匂い立つような色香に、体がぶるりと震えた。本音を言えば、今すぐにがっついてしまいたい。


「俺も男だし。このあと、俺の家に一緒に来たら……止められないよ?」


「部屋に行ってもいいんですか?」


 互いの視線が絡み合った。


 彼女の透き通るような瞳に、航平は吸い寄せられそうになる。ふわりと絡めた手をぎゅっと握ると、同じ強さで返ってきた。



 その後航平は美咲を自宅へ持ち帰った。玄関扉を開けて、彼女を中に入れた途端に余裕なくキスしてしまったくらいだ。


 そのまま寝室になだれ込み、美咲を美味しくいただいてしまった。


(まさか美咲ちゃん、全部きれいさっぱり忘れていたとは思わなかった)


 週が明けた平日の夕方、航平は自分の席でがっくりと項垂れていた。


 大手町にある職場では、誰かが電話する声やパソコンのキーボードを叩く音が聞こえてくる。打ち合わせから帰ってきた航平は溜まっていたメールの返信をしていく。


 さっさと今日のノルマをこなさないと、いつまで経っても帰ることができない。


 集中力がとぎれた瞬間、頭に浮かび上がってきたのは、先週末の飲み会で持ち帰り、半ば押し切って彼女にしてしまった美咲のことだった。


 彼女との時間を取るために気合と根性で仕事を片付け、PCの電源を落としたのは、二十時を回った頃だった。


 オフィスに残っているのはすでに少数で、一部フロアは電気が落とされ暗い。

 航平も毎日残業三昧でもなく、一応メリハリはつけている。エレベーターホールへ向かって歩いていると、見知った顔とかち合った。


「あ、忽那。来週合コンやるんだけどおまえも来いよ!」


 へらりとした笑みを浮かべた男は航平の同期だ。

 航平と同じく独身のこの同期の趣味は大勢でぱぁっと騒ぐこと。しょっちゅう飲み会を主催している。主に女性を交えた飲み会だ。そして同期で独身ということもあり、航平は高い頻度でこの男から誘われる。気軽に誘える飲み仲間認定をされているからだ。


 その理由というのが。


「やっぱり忽那が来るのと来ないのとじゃ、参加女子たちのレベルが違うんだわ」


「おまえなあ。いっつも言っているけど、俺にそこまでの価値ないだろ。とにかく、俺は駄目だ。他を当たれ」


 彼はいつも航平をおだててくるが、そこまで自分の顔に価値があるとは思えない。何しろ、好きな子一人振り向かせることができなかったのだ。


「おまえだってそろそろいい子と出会いたいだろ。次のは某商社の今年の新卒女子だぞ。おまえの写真を相手の幹事に送ったら、絶対に連れてこいって言われたんだよ。俺の幸せがかかっているんだから、よろしくな」


 こいつは何を勝手に人の写真を送っているのだ。冗談ではない。そうやって人を巻き込むから、航平が遊び人だという噂が密やかに四葉不動産ビルマネジメントに届いていたのだ。まったくの濡れ衣である。


 確かに飲み会には参加していたが、航平は女性を持ち帰ったことなどないし、いつも酔っぱらったこの男の介抱役に回っている。まったくもって時間の無駄である。


 だったら断れと言われれば、その通りなのだが、この男の部署とも仕事上それなりに付き合いがあるわけで。飲み会に付き合えば円滑に仕事が回るのであれば、航平にとっては仕事の一環という側面もある。


 人には面倒見がいいと言われるが、単に理不尽でないお願いであれば、仕方がないときいてしまう性分なだけだ。絶対に長男だからだと思う。いや、それよりも面倒をかけまくってきたあの弟のせいではないだろうか。


 しかし、今日からは違う。何しろこれまでの航平とは一味違うのだ。


「残念だけど、俺は彼女ができた。だから義理とはいえ今後は合コンには参加できない。同じこと彼女にやられたら嫌だろう?」


「ええぇっ!? おまえだけいつの間に……」


「いつの間にだっていいだろ。じゃあな、おつかれ」


「一人だけずるいぞ! 俺にも協力しろ!」となんやかんや叫ぶ同期を無視して、航平はエレベーターに乗り込んだ。



 外に出ると幾分風は冷たさを孕んでいるが、秋のそれとはまだほど遠い。今年の残暑も厳しいのか、と内心ごちて地下鉄駅へ向かう。


 航平が美咲のことを気にし始めたのは、今手掛けるプロジェクトの関係で四葉不動産ビルマネジメントに出入りするようになってからのことだった。

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