第16話

 ひとまず着替えたわたしは、そろりとリビングダイニングルームへ足を踏み入れた。


「お待たせしました」


 とにかく今は落ち着いて話をすることが大事だ。


 二人用のダイニングテーブルの上には朝食が用意されていた。

 お皿の上にはオムレツと焼いたベーコンに葉野菜とミニトマトのサラダ。それに、コンソメスープもある。簡単なものと忽那さんは言っていたけれど、十分に丁寧な朝ご飯だ。


 わたしは忽那さんの向かい側に着席した。


「冷めないうちにどうぞ」


「……ありがとうございます。あの、いただきます」


 こんがりときつね色に焼けたトーストはスーパーでよく見るメーカーの厚切り五枚入りのもの。

 流行りの食パン専門店ではなく、わたしでも知っている庶民派パンメーカーの食パンを愛用していることに親近感を持った。


「美味しいです。お料理上手なんですね」


 現在すでに十一時近く。食欲などないと思っていたはずなのに、一度口を付けると胃が空腹を主張し始めるのだから現金なものだ。


「いや、そんなうまくはないよ。適当にあり合わせで作っただけだから」


「いえ、それをできるのがすごいといいますか」


 忽那さんが作ってくれたオムレツは中がとろとろだった。普段から作っていないと、こうはならない。サラダだって、普段から健康に気を使っていないと、一人暮らしの男性が冷蔵庫に野菜など入れないのではないだろうか。



 食べ終わると、忽那さんがコーヒーを淹れてくれて、ようやくわたしたちは本題に入ることにした。


「昨日のわたし、どんな感じでしたか?」


「昨日は、一次会のあと二次会に行って。あ、二次会はカラオケ。美咲ちゃ……いや、真野さん勧められるまま、何曲か歌っていたよ」


「うそでしょ……」


 顔から瞬時に血の気が引いた。飲み会はいつも一次会で解散していたから、二次会もカラオケも同僚とは初めてだ。


「二次会のあと、俺と一緒にもう少し飲もうかってことになって、バーに行って」


「ちなみに、それって他に誰かいました?」


「いや、二人で」


「すみません。カラオケで歌ったことも、バーへ行ったことも……まったく思い出せません。それどころか、一体どうしてこんなことになっているのかも……まったく分かりません」


「ええと……。バーでその、みさ……いや真野さんとこれまでの恋愛話になって──」


 忽那さんが気まずそうに言葉を濁した。


 要約すると、わたしは忽那さんに年齢イコール彼氏いない歴という最重要機密を打ち明けたとのこと。

 そして、あろうことか、彼に重たすぎて持て余していた処女を押し付けてしまったと。


 あまりのことに、一瞬気が遠くなりかけた。よりにもよって忽那さんに押し付けるとは。図々しすぎるだろう。


 この時点でわたしは忽那さんの話を全部信じている。だって、彼はわたしとは違い異性にモテまくりなのだ。わざわざわたしをそそのかしてお持ち帰りするメリットがない。自慢ではないが、異性に告白されたことだってないのだ。


「こういうこと言うと、言い訳をしているようで心苦しいんだけれど、真野さん顔色も普段とあまり変わっていなかったし、言動もしっかりしていたから、全部覚えているものだと思っていた」


「……わたしもまさか自分がこんな風に記憶を失くすことになるとは思ってもみなかったので、本当にご迷惑をおかけしました」


 穴があったら入りたい。永久に埋まっていたい。


 わたしは深々と頭を下げた。


 まさか自分の身にドラマや漫画のような出来事が起こるだなんて。あれだけ厭わしかった処女をあっさり喪失していたことが信じられない。


 失って残念な気持ちはないのだけれど、まったく何も覚えていないのもちょっと寂しいと思ってしまったのもまた事実だった。


 目の前に座る忽那さんはどんな風にわたしを抱いたのだろう。

 わたしは、どんな反応をしたのだろう。などと考えてしまい、顔に熱が集まった。


 忽那さんに多大な迷惑をかけたのだから反省するところだ、と自分を𠮟咤する。


「俺たち、付き合おうっていう話になったんだけど」


「はいぃぃ?」


 忽那さんの爆弾発言に、わたしは目玉が飛び出るほどに驚いた。


 と、そのときぱっとひらめいた。


「もしかして、夢! 忽那さんが夢に出てきて、何か会話していて……」


「夢……。そうか、真野さんの中では夢の中の出来事になっているんだ」


「いえ、内容はよく覚えていないのですが、夢に忽那さんが出てきたことは覚えていて」


「夢じゃないよ。ことが終わったあと、俺は真野さんに交際を申し込んだ。俺はこのままきみと付き合いたいと思っているし責任を取りたいとも思っている」


「そ、それって……えっと……ひ、避妊とか、そういう……?」


 恥ずかしくて最後まで言うことができなかった。


 まさか、自分が避妊という単語を口にする日が来るとは。人生何が起こるか分からない。


「大丈夫。ちゃんとゴムつけたから」


「あ、はい……。ありがとうございます」


 しっかりとした口調で返ってきてひとまず安心した。


「避妊をきちんとしていただけたのなら……そんな責任とかそういうところまで気を使っていただく必要はないので……」


 このままフェードアウトでよろしいのですよ。そのようなニュアンスを台詞の中にふんわりと混ぜてみる。


 覚えていないのは残念だけれど、まさか酔った勢いで一度寝ただけのみんなの憧れ忽那さんがわたしの彼氏になるなどという超展開は望んでいないし、恐れ多すぎる。


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