第10話

「家で食べるのも今ここで食べるのも一緒だろう?」


「え、ええ……?」


 確かにそうだけれど。心の中は大騒ぎだ。


 だって、こんな風に男性から誘われたこと、これまでの人生でただの一度もないのだから。


 四葉不動産屈指の人気者と地味なわたしが二人でカフェ……。そんな恐れ多すぎる!


 返事を躊躇っているうちに忽那さんは「暑いから中に入ろうか」と店の扉を開けてしまった。必然的にわたしも中に入ることになった。


 気が付けばパティスリーの奥に併設されているカフェスペースへ案内されていた。


 目の前に座っているのは紛れもなく、あの忽那さん。

 出されたお水をこくりと一口。その冷たさに体が喜ぶ。喉が潤っていく清涼感に現実逃避していると、店員さんがドリンクメニューを手渡してくれた。


「真野さん、洋菓子も食べるんだね」


「はい。普通に食べますが」


「てっきり和菓子が好きなんだとばかり思っていたから」


「どちらも公平に食べますよ?」


 わたしが答えると、忽那さんが苦笑いを浮かべた。どうしたのだろう、と忽那さんの様子を窺う。彼は「なんでもないよ」とすぐに平素の大人の余裕を醸し出す微笑みを顔に浮かべた。


 夕食前の時間帯だからか、カフェスペースにいるのはわたしたちともう一組だけ。


 店内は白を基調とした洗練された雰囲気で、普段愛用しているチェーン系の店とはまるで違う。ゆったりとした上品な空気はまるで日常から切り離されたようでもある。


 本当に、どうしてこんなことになっているのだろう。

 わたしのぽんこつな脳みそでは理解が追い付かない。


「注文はケーキセットでいいかな。ケーキはあっちのショーケースから選ぶみたいだね」


「そ、そうですね。たくさんあって迷いますね」


 緊張からか、返事をする声が若干上擦ってしまう。


 改めてドリンクメニューに視線を落とすと、一口にお茶といっても茶葉やフレーバーの種類がたくさんあって、どれにしたらいいのか迷ってしまう。しかし暑いためアイスティー一択だな、と頭の中の冷静な部分から突っ込みが入った。


「今日は俺のごちそう。なんでも好きなもの頼んで」


「え、でも。悪いので」


「真野さんの誕生日、俺に祝わせてって言ったでしょ」


「……でも」


「真野さん」


「……はい」


 イケメンの迫力に負けてわたしはつい頷いてしまった。


 ごちそうするくだりが自然すぎて、さすがは手慣れているなと考えてしまう。


 ──ああいう爽やかそうなのに限って裏では遊びまくってんのよ──


 ふと、この間の小湊さんの台詞が脳内に蘇った。


 わたしは改めて忽那さんを見やる。


 涼やかな目元にスッと通った鼻梁。髪の毛はスタイリング剤を使用して適度に固めていて、清潔感のある印象を与えている。


 わたしみたいな地味で目立たない女子も気軽に誘うくらいにはきっと、女性に慣れているのだろう。もちろんわたしは誤解したりしない。仕事で関わることも多いから、これはきっと忽那さんなりの社交術なのだ。


 わたしは迷った末にカシスのケーキを選んだ。


 待つこと数分、ケーキが運ばれてきた。長方形のケーキの断面はムースとジュレとスポンジなどの彩りが芸術品のように美しい。

 こんなにも手の込んだケーキを食べるのはいつ以来だろう。繊細なケーキにフォークを入れることが惜しくなってしまう。


「いただきます」


 それでも目の前の甘いものの誘惑に逆らえず、カシスのケーキを口へ運ぶ。


「美味しいです」


「うん。俺も甘いものの気分だったから嬉しい。甘さ加減もちょうどよくて、うまいな。いいお店知っているんだね、真野さん。さすが日比谷女子」


 忽那さんはシトロンのチーズケーキを頰張っている。白と黄色のコントラストが夏らしい佇まいを醸し出している。


 そっか。今日、忽那さんは甘いものが食べたかったのか。


 彼が何気なく口にしたであろう、その言葉に胸の奥がほんの少しだけちくりとした。

 先ほどちゃんと納得したではないか。忽那さんの今日のこの行為に他意はないと。


「いえいえ。わたしもここに来るのは初めてです。雑誌に載っていたので、来てみただけです。忽那さんのほうこそデートで来ていそうです」


「そんなことないよ」


 な、何を言っちゃってるのわたし。変なことを口走るから忽那さんが反応に困って苦笑いを浮かべてしまった。


「わたし、普段はチェーン系のカフェで友達と長話をするくらいなので。ほんとう、美味しいですね、このケーキ。お土産に何か買って帰ろうかな」


 変な空気を吹き飛ばすように、わたしは努めて明るい声を出した。これ以上おかしなことを言わないよう、ここは無難に共通の話題を振ってみよう。


 ケーキを食べつつ、仕事の話をしていると、徐々に落ち着いてきた。


「真野さんとこうしてゆっくり話すのって初めてだね。この間の暑気払い、参加じゃなかったし」


「あの日は先約があって」


「友達と?」


「はい。大学時代の友達です。今度結婚するんですよ」


「そっか。おめでとう」


「って、わたしじゃないですよ」


 わたしは自虐的な笑みを浮かべて、アイスティーを喉へ流し込む。


「わたしなんて会社と家との往復で出会いも何もなくて。この間母から連絡が来たと思ったら、結婚相談所への入会を勧める話だったくらいで」


 あれ。何を話しているのだろう。つい口が滑って誕生日を前に母からスマホに来たメッセージの内容を暴露してしまう。話の繫げ方が下手にもほどがあるだろう。


 それは数日前のことだった。「誕生日も近いし、久しぶりに顔を見せなさい」と帰省を促すメッセージを母から受け取った。


 最近連絡していなかったな、と電話するとなぜだか話題がパート先の同僚の近況へと移った。どうやら同僚の娘さんが結婚相談所に入会して、二カ月で男性と出会って結婚を決めたらしい。


 そうか、結婚相談所って流行っているんだ、と一人きりの部屋で若干遠い目をしていたら「色々話を聞いていると、美咲にぴったりだと思ったわけよ」とわたしに入会を勧めてきた。どうやら誕生日は口実で、母の本音はわたしに結婚相談所へ入会させることだったらしい。


「真野さん、入会するの?」


 忽那さんがびっくりした顔を作った。

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