第9話
わたしはここ最近あった出来事をかいつまんで一花ちゃんに話して聞かせた。
「うーわ。そういう子いるよね~。気にしなくていいよ。そういうちょっと意地悪な子の言うことなんてさ」
聞いた一花ちゃんは口をへの字に曲げた。
「うーん、でも心にぐさっと来ちゃったわけだし。確かにわたし女子力低めだったし」
「可愛くするのは悪くはないよ。問題は美咲がそれを楽しんでいるかっていうこと」
「わたしが?」
「そう。なんでも好きじゃないと長続きしないよ。わたしはこれからも洋祐くんを応援していくわけだし。そのくらい好きが必要なの! 美咲、おしゃれも推しも強制されても続かないんだからね!」
「う、うん……」
ずい、と身を乗り出す一花ちゃんの気迫に押されたわたしはゆっくりと頷いた。
「わたし、髪型チェンジして気分がふわっとしたっていうか。思った以上に楽しくなったから。ちょっと試行錯誤してみる」
「あー、分かるかも。髪型変えるとめっちゃ気分変わるよね」
金曜日のダイニング居酒屋はテーブルが八割ほど埋まっている。雑多な空気の中、テーブルの上のお酒と料理を消費しつつわたしたちは会社の愚痴、おすすめの美容動画や話題の食べ物の話で盛り上がり、それから結婚の話にまた戻って。
わたしは手元にある柚子蜜酒をごくっと飲む。
「一花ちゃんが羨ましい。わたしも、誰かいい人が見つかればいいのに」
三杯ほどグラスを重ねたせいか、つい、本音が漏れてしまう。
「まだうちらなんて二十九じゃん。これからだって。ほら、会社とかにいないの? かっこいい人たまに来るって言っていたじゃない」
一花ちゃんが運ばれてきたばかりのハイボールをごくごく喉へ流し込み、さっきと同じ話題を振ってきた。
「忽那さんはエリートだもん。グループ会社の一社員なんか相手にもしないよ」
「ふうん。忽那さんっていうんだ。その彼」
「彼じゃないし、なんとも思ってないもん」
「でもイケメンなんでしょ?」
「それだけだよ~。それに……遊んでいるって噂だし」
「噂でしょ? 噂は大体話が盛られて伝わっていくからね」
「でも……忽那さんみたいなイケメンだったら遊ばれても悔いはないかも。むしろいい思い出?」
「ちょっと美咲、しっかりして。今日酔ってる。酔ってるよ」
「酔ってないよ~。まだ三杯しか飲んでないよ」
このくらいじゃ酔わない。けれども口が軽くなっていることには違いない。普段こんな大胆なこと言わないのに。忽那さんにだったら……。って、何考えているのわたし。
これ以上おかしなことを口走らないためにも、このあとはソフトドリンクに切り替えよう。
世間でいう、お盆の八月十五日。
この日の気温も朝からぐんぐん上昇した。家から会社までの道のりでぐったりしてしまう。
八月のど真ん中ということもあり、オフィス内はどこか寂し気だ。夏休みは交代制で取るのだけれど、帰省組の休みはこの時期に集中する。
わたしはといえば、特にどこかへ行く計画も立てなかったため、連休ではなく何週間かに渡って土日に休みを一日、二日くっつけて夏休みを取っている。おかげで週三日勤務だったり四日勤務だったりして八月は心にゆとりがある。
今日はわたしにとって一応意味のある日というか誕生日だ。
けれども社会人にとっては普通の平日と変わらない。
「お先に失礼します」
「おつかれ、真野さん」
仕事を切り上げ、オフィスを出たのは定時を少し回ったあと。外はまだ暑い。
結局今年も何もないまま、二十九歳になってしまった。
何も行動しなければ、何もない日常を繰り返すだけ。せっかくの誕生日だというのに、心がささくれ立っている。
何か、気分を変えようと思い立つ。
「せっかくだから、ケーキ買って帰ろうかな」
うん、そうしよう。繊細で丁寧に作られた華やかなケーキを買えば気分も上向くはず。
確か、この間買ったファッション誌に掲載されていたパティスリーがこの近くにあったっけ。スマホを取り出して店名を検索画面に打ち込んでみる。
わたしは検索結果を頼りに、丸の内方面に向けて歩き出した。
もう夕方なのに、肌を撫でる風はまだ熱気を孕んでいる。額に汗がじわりとにじみ出てくる。
「真野さん。今帰り?」
丸の内仲通りを右に曲がったところで、爽やかな声に話しかけられた。
「忽那さん!」
まさかこんな道端で忽那さんに会うとは思わなかった。こんなこと初めてだ。
彼の勤める四葉不動産の本社は丸の内、いや大手町にあったはず。だとすると、今は取引先からの帰りだろうか。
この暑さの中、スーツをびしりと着こなす忽那さんはオフィスにいるときと変わらず、爽やかオーラを漂わせている。
イケメンは、この暑さと別次元を生きる生き物なのかもしれない。そんなことを本気で考えてしまった。
「お仕事の帰りですか?」
突然の遭遇に当たり前のことを聞いてしまう。
「ああ、取引先からの直帰。さっき打ち合わせが終わったんだ」
「お仕事、お疲れ様です」
「真野さんもこれから帰るところ? 何線に乗るの? 途中まで一緒しよう」
「あ、わたしはちょっとここに寄ろうかと」
わたしは忽那さんの後方に視線を向ける。
すぐ目の前がお目当てのパティスリーだ。日本人男性の名前を冠するこの店は本場パリにも出店している人気店とのこと。店構えからしてスタイリッシュだ。
「ケーキ店?」
「ケーキ店ですね……きょ、今日誕生日なので……ケーキを買って帰ろうかと」
わたしはつい余計なことまで口走ってしまった。
会社外で忽那さんと出くわしたことに、自分で思う以上に動転しているらしい。
「そっか。真野さんは今日が誕生日なんだ。おめでとう」
「ありがとうございます」
忽那さんはいつもと変わらない清涼な笑顔と声でお祝いの言葉をくれたから、わたしもなんの屈託もなくお礼を言うことができた。
「そうだ。せっかくケーキ買うなら今食べていかない? 俺でよければ真野さんの誕生日祝わせてよ」
「えっ!」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。それくらい彼の提案は思いがけないものだった。
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