第5話
トイレで思ったよりも時間を取られてしまい、ミーティング開始に向けて準備に追われた。人数分の資料を会議室に置いて、モニターのセッティングもしておかないと。
「あ、真野さん。今メールに添付した資料も出しておいて」
わたしはアシスタント的な業務が多く、今日のようなミーティングのときは直前に追加指示を受けることもある。参加者の一人からプレゼン用資料の数字の差し替えを頼まれたため慌てて修正をしていると、あっという間に開始時刻近くになった。
「あー、忽那さんだぁ。お疲れ様ですぅ」
客人にいち早く気が付いたのは、推進課の隣で仕事をする鈴木さんだった。
通常の三割増しくらいに甘めの声を出し、素早く忽那さんへ近寄る。
すごいなあ、と感心してしまう。鈴木さんは忽那さんに纏わりついている。先ほど聞いた彼女の本音が尾を引き、正直に言えば彼女に近付くのは億劫だ。
しかし、忽那さんは推進課のお客様。こちらが彼のプロジェクトの下請け的存在なのだ。
わたしは短く息を吸い、腹をくくった。
「忽那さん、お疲れ様です」
「こんにちは、真野さん。それから鈴木さんも」
曇りのない爽やかな笑顔で挨拶を返された。まるで忽那さんに後光が射したかのようだ。わたしは眩しさを感じて、思わず目を細めた。
忽那航平さんはわたしの勤める四葉不動産ビルマネジメントの親会社でもある四葉不動産の所属だ。業界大手の総合不動産会社の本部機能を持つのが四葉不動産で、同じ名を冠に載せたいくつものグループ会社を持っている。業務内容は会社ごとに細分化されている。分譲住宅販売や大規模ショッピングモールの運営をする会社、うちのようにオフィスビルのマネジメントおよび管理運営をそれぞれ行っている。
グループの中でも頂点に立つ四葉不動産本店勤務のエリート社員。それが忽那さん。
「あの。お土産です」
忽那さんの部下の男性社員がひょこっと体を前に出して、紙袋を鈴木さんに差し出そうとする。
彼と一緒にこのオフィスに顔を出すこの若手社員はどうやら鈴木さんがお気に入りのようだ。
「真野さんたち、推進課の皆さんでどうぞ」
忽那さんが言い添えると後輩くんは慌ててわたしに紙袋を押し付けた。
「いつもお気遣いありがとうございます」
こんな地味女子に渡すよりも鈴木さんに渡して点数稼ぎたいよね。ごめんね、推進課にいるのがわたしみたいな地味な子で。
精神的ダメージを引きずったわたしの心の声はいつにも増して卑屈だ。
「わぁぁ。忽那さん、わたしたちのためにありがとうございますぅ。あ、そうだ。お礼にコーヒー淹れて持っていっちゃいますぅ」
わたしのお礼の言葉をかき消す音量で鈴木さんがはしゃいだ声を出した。
鈴木さんの裏の顔を知らなかったこれまでのわたしだったら、今日も鈴木さんは可愛いなあとしか思わなかっただろう。知ってしまった今は無言の圧力を感じる。
ちょうどそのとき、推進課の島に更科課長が戻ってきた。
「ああ、忽那さん。お疲れ様です。いつもの通り、ミーティングルーム三で。真野さん、悪いんだけどコーヒー人数分お願いね」
課長は忽那さんたちに会釈をすると、手早く資料をピックアップした。今日も彼女はダークグレーのパンツスーツをカッコよく着こなしている。
姿勢がよく、シンプルな装いの中にも華があり、まさに自信のある大人の女性という出で立ちだ。
「コーヒーなら、今わたしが淹れますって手を挙げましたぁ」
はいはーい、と鈴木さんが更科課長にアピールする。
課長はちらりと鈴木さんに視線をやる。
「鈴木さん、自分の仕事終わっているの? あなたに頼むとこっちが田中課長に文句を言われるのよ」
以前、だったらお願いと更科課長が頼んだあと、鈴木さんは自分の仕事が長引いた理由を「だってぇ更科課長に駆り出されてぇ」と彼女の上司の田中課長に報告した。それを聞いた田中課長は後日更科課長に嫌味を言ったのだ。
更科課長はもう一度わたしに視線を戻した。
分かっています。推進課の業務の一環ですから、きちんとわたしが用意します。
「更科さん、お気遣いなく。それよりも事前に今日の資料について真野さんに確認したいことがありまして。彼女を少しお借りしてもよろしいでしょうか」
「あ、じゃあ尚更コーヒーはわたしが」
「コーヒーはわたしが準備しますよ、課長」
チャンス到来とばかりに食い付いた鈴木さんだったが、今度は推進課の小湊さんが口をはさんだ。
更科課長は「じゃあ、小湊さんよろしく」と言って足早に去っていった。
ちっとも自分の思い通りにならなかった鈴木さんは頰を膨らませている。
「真野さん、じゃあ少しいいかな」
「あ、はい」
忽那さんに呼ばれたわたしは彼についていく。
現在四葉不動産は都内の一等地に複合ビル施設を開発・建設中だ。いくつもの会社が関わる共同事業で、うちの会社はそのビルの管理・運営を任されることになっている。
テナント誘致や選定などをうちの課が手伝っているため、細かな打ち合わせが適時発生する。わたしも連日多くの資料作りを任されているから、こうして彼からテナント候補の率直な感想を求められたり、資料に関する質問を受けることがある。
仕事とはいえ、忽那さんと二人で会話することに、わたしは未だに慣れない。
何しろ忽那さんはその辺のイケメン俳優よりも整った顔立ちをしているのだ。
年は三十五歳だと聞いているが、まったくそうは見えない若々しさと高身長を兼ね備え、声も耳に心地のよい低音。
イケメンにありがちな驕った態度がまったくなく、わたしにも親切なのだ。
この会社でも忽那さんにぽわんとした表情を向ける女性社員は多い。
「ありがとう、真野さん。助かったよ」
「いえ。わたしなんかがお役に立てたのかどうか……」
「もちろん。真野さんの作った資料、とても分かりやすいよ」
「ありがとうございます」
忽那さんは社員を持ち上げるのがお上手だ。グループ会社の末端社員であるわたしにすら優しいのだ。
ミーティングの時間が迫ってきていたため、わたしは軽く会釈をして忽那さんから離れた。彼の背中をなんとはなしに見つめる。
テレビの中でしかお目にかかれないような美貌の男性と仕事で関われるのは眼福ものだけれど少し遠くから眺めるくらいがちょうどいい。
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