第3話
昨日は結局、みんなの話に相槌を打つばかりで、男性経験のなさを話す気にもなれなかった。
それはきっと、わたしの中で少なからずそのことに対して負い目を感じているからだ。
沈みそうになる思考から抜け出すため、顔を上げて時間を確認した。
今日は夕方からグループ会社の社員さんがやってきて、課長たちとミーティングがある。
先ほど追加で入れてほしいデータがあると課長に言われて、作り直していたのだ。
出来上がった資料を課長宛てにメール送信して、指示されたページのみ必要枚数プリントアウトする。
「おつかれ、真野さん。終わった?」
立ち上がって複合機から紙束を持って帰ってきたところで、同じ課の小湊さんが声を掛けてきた。
「はい。何とか」
「えらいえらい。さすが真野さん。今のうちに休憩してきちゃいなよ」
「そうですね。ちょっと目も疲れたので、席外しますね」
「うんうん。いっておいで~」
小湊さんの明るい声に背中を押されて、わたしはフロアの共用部分へ向かった。
わたしの務める四葉不動産ビルマネジメントは日比谷駅から数分の場所に建つオフィスビルの五階に入っている。同じフロアには他の会社も同居している。
ビル共用のお手洗いに入ったわたしはまだ昨日からの感情を持て余していた。
結局、焦っているのだ。この年になってもまだ、誰ともお付き合いをしたことがないことに。
だから、歩菜ちゃんを祝福する気持ちの傍ら、羨ましいと思ってしまう。わたしと同じ場所にいたのに、歩菜ちゃんだけ先に別の場所へと行ってしまったから。
もちろんそれは彼女が行動を起こした結果だ。対するわたしは未だに同じ場所で足踏みしている状態なのだ。
羨ましいと思うのなら行動すればいいのに、新しいことを始めるのには心のハードルが高いと感じてしまう。
こんなことじゃないけない。ちゃんとわたしも前に進まないと。よし、休憩終わり、と個室の鍵を開けようとしたところで、お手洗いの出入り口付近から高い声が聞こえてきた。
「でさー。今度の推進課の暑気払い、課の人以外は誘ってくれないのー。酷くない?」
少し間伸びをした高い声は、不満を醸し出している。
推進課という言葉にどきりとした。
それはもしかしなくても、わたしが所属するテナント推進課の社内での略称ではないだろうか。だとしたら同じ会社の女の子だろうか。なんとなく、話し手の声に聞き覚えがある。
「なに心愛、推進課の暑気払い行きたいの?」
「会社の飲み会とか、面倒なだけじゃん」
そうそう、さっきの声は隣の課に所属する鈴木心愛ちゃん。わたしの数年後に入社をした後輩だ。
その可愛い名前の通り、茶色のふわふわした巻き毛と甘い顔立ちで、わたしとは対極の社内でも何かと目立つ女の子。常につやつやに光ったネイルと念入りに施された化粧。それに流行をきちんと押さえた服装でオフィスを闊歩している。
それに比べてわたしはといえば。ライトグレーのブラウスに紺色のスカートといった、面白みの欠片もない組み合わせだ。
「別にわたしは推進課はどうでもいいの」
「じゃあ何?」
鈴木さんたちが会話を繰り広げていく。おそらく彼女と仲のいい同期の子か誰かだろう。お手洗いと称した休憩タイムらしい。
わたしは、出て行くタイミングを見失ってしまった。
彼女たちは個室へ入ることなく、会話を続けていく。
「今度の暑気払い、あの忽那さんも来るんだって。マジうらやましいよー」
鈴木さんがことさら高い声を出した。続けて「えー、うそー」「いいなあ」という声が響いた。
「課長にお願いしてみたら?」
「それとなく言ったけど駄目だったから、今愚痴ってんじゃん」
「更科課長厳しいっ!」
「ねー。別にいいじゃんね。推進課って、お堅い女性ばっかりだし。わたしみたいな子がいたほうが華があって忽那さんも喜ぶと思うんだけどぉ」
「自分で華があるとか言うな」
「だってほんとのことだもん~」
きゃはは、と三人娘の姦しい声がお手洗いの壁に吸い込まれていく。
「お堅い女性と更科目更科課っていう種類の更科課長しかいないんだから、心愛も安心じゃん」
「だから、別にわたしは忽那さんに本気ってわけじゃないし」
同僚の突っ込みに鈴木さんがしっかりと念を押す。
彼女たちのもの言いに、胸の奥がざわついた。鈴木さんを含む三人が明らかにわたしの直属の上司である更科課長を揶揄して笑いの種にしていること。
更科課長は女性で、鈴木さんとは真逆のタイプ。少し男勝りなところがあり、さばさばしていて話しやすいが、きっぱりと意見を言う彼女のことを普段から鈴木さんは遠巻きに眺めている。
そうか、忽那さん暑気払いに参加するんだ。どうしてわたしよりも隣の課の鈴木さんのほうが情報が早いんだろう。謎だ。
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