巫山の夢
零
第1話
「お、おお…」
男は呻いた。
彼の目の前には美しい花魁の姿がある。
夜の帳の中、行燈の仄かな明かりに照らされて、淡く発光しているようにも見える。
主さん、と、彼女は甘やかな声で彼を呼んだ。
「ああ、ああ、やはり、美しい」
男は感極まり、はいつくばって涙を流した。
男の目の前の彼女の着物の裾がもぞもぞと動き、中から、真っ白い猫が顔を出した。
赤い紐に金の鈴をつけた猫は、金色の瞳でじっと男を見ている。
猫が着物の裾から出ていくと、猫の毛並みに勝るとも劣らない白さの、美しい足が表れた。
花魁は裾を捌いてすっと腰を落とし、男の頬に触れた。
男が涙で汚れた顔を上げると、花魁は大輪の花のように微笑んでいる。
そのことが、却って男の涙を誘い、胸を突いた。
花魁はそっと男を抱きしめた。
「ああ、すまない、すまない、私は、」
その細い腕の中で、男は何度も駄々をこねる子供の用に首を横に振った。
「もう、いいのです」
花魁がが男の耳に囁くと、男は小さく、ありがとう、と言って目を閉じた。
その姿が薄れ、やがて、消えた。
花魁の手の中には、小さく光る蛍のような光が残された。
「送ってやってくれ」
いつの間に現れたのか、闇から抜け出たような、黒い着物の男が花魁にそう告げると、花魁はこくりと頷いてそっとその手で光を掲げた。
光は、二度三度花魁の周囲をめぐり、白み始めた空に駆け上っていった。
「手間、かけたな」
黒衣の男がそういうと、花魁は無言で首を横に振った。
「実際、どうなんだ?」
男は、火鉢を引き寄せると懐から煙管を出して軽くふかした。
そして、それを花魁に差し出す。
花魁はそれを受け取ると、深く吸い込んで煙と一緒に吐き出した。
「おぼえちゃあいないよ。たった一夜、枕を共にした相手なんか、サ、」
少なくとも、あの男と過ごしたのが「たった一夜」であることは覚えているようだった。
二人の間の秘密は、明かされない。
男はそう察して静かに嘆息した。
それを見て花魁が不機嫌そうに忍び笑いを漏らした。
「さて、アタシも帰らないとね。閻魔様に怒られちまう」
そういって立ち上がった彼女の姿が、差してきた朝日に溶けるように薄くなる。
「ありがとうね」
花魁は身をかがめ、足元に座っている白猫の頭を懐かしそうに撫でた。
「ま、楽しかったよ」
そういってひらひらと手を振りながら、強気な笑顔で消えた。
後には、真っ白い猫が残されていた。
「逝ったね」
猫はそう呟くとひらりと身を翻して男の肩に乗った。
その尾が二股に分かれている。
「他の奴らはどうするんだい?まぁ、花街に残る男の残留思念をいちいち相手にしてたらキリがないけど、さ」
そういってさもおかしそうに笑う。
もっとも、と言って猫は付け足した。
「女の怨念を相手にしてるほうが、きりがないけどネ」
「やめろよ」
男はそう言って二の腕を抱き、辺りを見回した。
実際、男の方には、実は何も見えていない。
霊が見えているのは猫の方なのだ。
その猫の力を借りて、男にも対象となる霊は見える、というより、見せてもらっている。
(つまり、御猫様に食わしてもらってるのは、おれのほう、ってね)
男は自嘲気味にそういって、肩の猫の喉を撫でた。
巫山の夢 零 @reimitsuki
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