第六章

1話 思い込み

『未だ、降り続く雨は、止む事を知らない』


 嫌な予感がした。

 そう、予感がした、だけなのだ。


「……何だ、この胸騒ぎは……」


 アリアはシオンの身に何かが起こるのではないかと思った。急いで外へ行く準備をした。怪我の痛みなど忘れ、雨が降っていることを無視して。

 とにかく走った。泥水が服に付いたとしても、雨で服が濡れたとしても、気にせず走った。走り続けた。小さな体の為、体力の消耗が激しい。息がすぐに切れてしまった。肺が痛い。辛い。でも、シオンが危ない。それに変えられる想いなど、今の自分には存在しないのだ。

 バシャリと転んでしまった。盛大に泥がきれいな服を汚す。

 ゆっくりと体を起こし、地面に溜まっている水の中の自分を見た。……みじめだと思った。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。喜びではなく、哀しみの。


「こんなところで……へばってはいられない。シオン」


 めげずにすぐに立ち上がり、シオンの気配のある方へまた走り出した。


 *


 そうして今に至る。


「あ……アリア。ちょ、どうしてここまで来たんですか! 家で待っていてくださいって、言いましたよね? あーもう……包帯が取れかかってるじゃないですか~!」

「傷は治ったからいいのよ」

「『治った』、じゃなくて! まだ治ってないです!」

「私が治ったって言ったら治ったのよ。それよりも」


 そう。それよりも。マリーがなぜここにいるのかが気になった。小綺麗こぎれいな服が泥で台無しになっている。さらに、彼女の顔をよく見れば目元が赤くなっていた。おそらく、怖い思いをして沢山泣いたのだろうと推測ができた。


「マリー」


 名を呼ぶと、雨に濡れた体をビクリと震わせた。まだ怖いのだろうか。いや、違うな。自分の事を殺したいほどに憎んでいるのだ。その敵が、今、目の前にいる。その現実にアリアはどこか悲しげな表情をした。


「マリー。君に怪我が無くて安心したわ。大方、シオンが守ってくれたのでしょう」

「はい。ちゃんと守りました。なので褒めてください」

「褒めてあげるわ」

「ありがとうございます、アリア」


 シオンはまるで飼いらされた犬のように、見えない尻尾を振っていた。そんな大きい息子を持ったアリアは苦笑した。


「そのことに関しては、感謝しています。でも、これはそれとは違うでしょ……?」

「そうね」


 この子になら殺されてもいい。

 そう思っていた。ローズの形見である彼女になら、殺されてもいいと。だけど、今さら……守りたいと、守るために生きたいと願うのは……欲が深すぎるだろうか?

 アリアはぐっと言いたいことを胸の中に仕舞いこんだ。


「……私、どうすればいいのか、分からないの」


 重苦しくなった雨の中、場の空気を変えたのはマリーだった。


「分からないってどういうこと?」

「……」


 マリーは無言のまま腰に手を回した。その瞬間、シオンの目の色が変わった。すぐにアリアの目前に立ち、影の鎌デスサイズをもう一度出現させた。今この瞬間にシオンはマリーを敵だと認識したのだ。


「待ってシオン。落ち着いて。お願い」


 だが、シオンは武器をおろさない。

 彼は完全にマリーを警戒し切っていた。


「……ですが、アリア。この子はこれから武器を出すかもしれません。僕はアリアが死ぬようなことがあればその時点でこの子を斬り伏せます」

「焦るなと言っているの。武器の気配はしない。武器が無かったから、敵の攻撃に抵抗できなかったんでしょう」


 確かに、とシオンは渋々納得した。そんなことは関係ないのだと反論したかったが、アリアの言うすべてがシオンのすべてなのだ。納得せざるを得なかった。そう思っているのもシオンだけなのだが。


「やっぱり、あなたは敵なのね」

「試したのですか?」

「助けてもらったのにごめんなさい。でも、確かめておきたかったの」

「……何かあったの?」

「…………なぜそう思うの?」

「空気が違うわ。どこか、失望した、そんな感じがする。教会で何かあったのかしら? まさか、教会内に敵がいたとか? ……敵は私ね」


 自分で言っていて、傷ついた。いくら嫌われていてもいざ自覚するとなると気持ちの持ちようが違った。


「アリア?」

「いや、なんでもない。……マリー。いったい何があったの?」

「質問しても……聞いてみてもいいですか?」

「?」


 急にしおらしくかしこまったマリーを見て、これはただごとじゃない。何かあったんだなとアリアは感じた。


「リトリア=アリアロキは、本当にあなたの実兄なの?」

「――!?」


 アリアの思考がその瞬間、停止した。マリーが知ってしまったのだ。核心をついてしまったのだ。敵の兄が、自分の上司だということに。……ここで嘘を言ったところで、彼女は納得しないだろう。納得しない上に、嘘などすぐに見破られる。そんなこと、わかっていた。


「……そうだよ。リトリアは私の兄だ」

「……そう。……これであの人が、あなたを気に掛けていることに納得がいったわ」

「……マリー。こっちに来て」

「ちょ、何するのよ! 離して!」


 アリアはその小さな体で精一杯マリーを引っ張る。そんなに力が無い幼女のはずなのに、なぜか振りほどくことができない。マリーはそんな自分に腹が立った。腹が立ったと同時にどこか安心した。安心したのは、この目の前にいる吸血鬼が本当に悪い奴ではないのかもしれないという可能性がマリーの中で渦巻き始めているからだ。


「なんで、振りほどけないのよ……」

「それはあなたがアリアを認め始めているからではないでしょうか?」


 横から同じ歩幅で歩いてきているシオンが話しかける。その声色は先ほどの『怖い』感じではない。どこか『温かい』感じだった。


「あなたはアリアの兄上であらせられるリトリアさんが、『アリアの実兄』だと知った。知った上で今、しっかりとアリアを見ている。見るということはいい事です。思い込みだけでは視界は広がりません」

「思い込み……」


 じっくりと、噛みしめるように、彼女はその言葉を呟いた。その表情は今までのものとは何か違うように感じられた。


「そう、思い込み。これからあなたは変わりますよ。きっとね」

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