10話 彼女は消えてしまった

 とにかく必死だった。

 雨足が一層酷くなっている。あいつはまだ追ってきていないようだ。

 何をすればいいのかわからなかった。私はローズの胸に手を当て、血を止めようとするが、少ししてそれが無駄なことなのだとわかってしまった。


「助からないのか……? くそ、血が、血が止まらない!」

「シ、シリウス……。泣か……ないの、男の子、で、しょう?」

「ローズ……」


 気付かないうちに、私は涙していた。雨で気づかれないと思っていたのに。最期まで彼女を心配させている自分が腹立たしい。ギリッと歯を噛みしめた。


「最期まで、ごめ……なさい。迷惑、ばかりかけて……」

「ッ、最期って言うな! 私は、君を……失いたくない!」

「……。ねぇ、シリウス」

「……」

「お願いがあるの。聞いて……?」

「……あぁ。何でも聞くよ。何でも言って」


 急に現実を見せつけられたような気がした。俯いて答える。すると、彼女は私の頬を両掌りょうてのひらで優しく包み込んだ。

 血に濡れたその両手を。冷たくなったその手を。急に悲しくなった。

 どうして彼女がこんな目に合わなければならなかったのか。私は、疫病神だったのだ。母様も兄さんも、そしてローズも。全て私の所為で。


「私、あなたと、キスしたい」

「…………。そ、」


 それは、と言葉を続けようとしたが、その前に、彼女の口が私の口を塞いでいた。彼女の唇は柔らかく、少し冷たかった。だが、私の体温を感じ取ってくれたのか、その時間だけ彼女の体温が戻っているように感じた。


「……ありがとう。……もう一つ、お願い」

「なに?」

「私の血を吸って」

「なっ、何を言ってるんだ。私が血を吸うということは、」


 純血の吸血鬼の能力は完全消失。――つまり。


「君の存在が完全に消滅するということだよ?」


「だからよ。……私は、あんな奴らにっ、負けない。あなたに、殺してほしい。愛してほしい。それが、私の、望み、だった。今ここで果たして。お願い」


 彼女は一音いちおん一音、丁寧に発音していく。荒い呼吸音が目立つ。私は混乱していた。どうすれば、どうすれば彼女を……。救うことだけを必死に考えた。だが、正解が見つからない。


「……。でも、君には家族がいるだろう」

「そうね……リオナには、寂しいっ、思いをさせ、るわね。でも、後悔はない。私、は、あなたを諦めることが、できなかった。夫に、も別れは告げて、ある。……お願い。あんな奴、に殺されたく、ない」


 お願い、と。

 彼女の意志は揺らがない。そして何回か咳き込む。血が止まらない。私は……彼女の最期の願いを飲み込むことにした。雨が、私の心を映す鏡のように思えた。


「おーい。どこに消えたんだ~さっきの吸血鬼~?」


 これは……。さっきの魔物の声だ。くそっ。こんな簡単に早く破られるなんて。私の結界は波の力では破れないはずなのに。時間がない。夢。ローズの夢。叶えなきゃ。でも、戦わなければやられる。やられる。ヤラレル。


「――っ、早く!」


 ローズの声が私の思考を止めた。


「早く……私の血を吸え、!」


『吸血鬼』――。

 初めて。初めて、彼女が私のことを『吸血鬼』と呼んだ。だからこそ、その敬意を、彼女が勇気を振り絞って私のことを『吸血鬼』と呼んだことを、私は無碍むげにはできなかった。


「はぅっ」


 私は、彼女の望みを、叶えた。彼女の右首筋に牙を立てる。じゅるじゅると不快な音が雨音と混じる。

 吸血鬼の本能が、彼女を束縛する。私の目はみるみるうちに赤く染まっていった。見たくないものがいろいろ見えてくる。血を吸うという行為は実に何十年ぶりだろうか。

 そして、彼女は消滅した。消失した。文字通り、彼女は消えてしまった。

 最後に、消える前に愛した彼女の口は「ありがとう」と言葉を紡いでいたのは、きっと目の錯覚などではないだろう。

 不思議と後悔はしなかった。


 少しして、地鳴りが始まる。眩い光に包まれ、大地震が発生した。


 私はその強大な力のお陰で何事もなくその場に立ち尽くすのみだった。

 ただ、ひとつだけ違うのは、心の中に消失感だけが残ったことだろうか?

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