第三話 バディは交換不可なのです!(1)
顔を、節くれだった指でぐいっとつかまれる。近距離から注がれる、真剣な眼差し。自分の心臓が、ドキドキとうるさい。
──ぐっと、顔を真横に向けられた。耳元に相手の息づかいを感じて、あたしはぎゅっと唇を噛み締める。
「──レンジャー小牧! 糸クズぅッ」
「い、糸クズッ!」
担当助教の怒鳴り声をおっきな声で復唱しながら、あたしは内心、あっちゃーと額を叩きたい気分だった。
レンジャー訓練期間中は、毎朝こうして身だしなみをチェックされる。今も、グラウンドに二列に並ばされていて、あちこちから「ヒゲぇっ!」だの「耳垢ぁっ!」だの、いろいろと声が聞こえてくる。
「屈み跳躍の姿勢をとれぇッ!」
「一、二ッ!」
助教の号令で、あたしと志鷹三曹は、向かい合うようにして位置についた。髪の毛の長さを注意された志鷹三曹の表情はまったくの無で、正直とっても怖い。
屈み跳躍は、重い小銃を首の後ろで持ちながら足を一歩前に出し、文字通り屈んだ状態からジャンプして、空中で足の前後を入れかえると屈みながら着地──そしてまたジャンプの繰り返し。
もちろん、腕立て同様、屈み跳躍の回数は、身だしなみを注意された分だけ増えてしまう。
身だしなみチェックに荷物チェック、助教の厳しい眼差しによって一ミリでもなにかがずれていると判断されれば、怒号プラスのペナルティ。ペナルティは自分だけじゃなくて、バディや学生全体を巻き込んでいく。
もちろん、ペナルティ以外にも運動は盛りだくさんだ。盛りだくさんすぎて、毎朝二時間くらいぶっ続けで「体力調整」と呼ばれる筋トレをしている。なぜか終らない筋トレは、もう筋力トレーニングというより筋力磨耗って感じだ。全然「調整」してない。
更には、磨耗しきった身体にムチを打ってのハイポート。一定の高さに小銃を抱えたまま、基地の中をぐるぐると走り回る。ぐるぐるぐるぐる、これも終わりが分からないくらいに続ける。たぶん、また二時間くらい。
そんでもって、これらが終わったあとは課目教育や覚えなきゃいけないことが、どっさりと待っていて。
「レンジャー小牧! 跳躍が低いんだよぉ高さだせッ高さ! そんなんじゃ回数になんねぇんだよッ」
助教の怒鳴り声に、あたしは力を込めて「レンジャー!」と怒鳴り返した。
「これより胆力テストを行うッ」
教官の言葉に、ぐっと拳をにぎる。
あたしたちの横にあるのは、「レンジャー塔」と呼ばれる鉄塔。高さは十一メートルくらいで、ここでロープを使った訓練を行う。
塔には二本の長いロープが真横にピンと張られていて。胆力テストというのは、そのロープを渡って真ん中まで行き、そこから跳び落ちるテストだ。
「フォールの合図で落ちろ。てめぇのロープを信じらんなけりゃ、なんもできねーぞ」
教官はそう言うけれど──以前、同じ部隊でレンジャー訓練を受けに行った人が、この胆力テストでアバラを折って
いや、実を言えば、怖い理由はそれだけじゃない。高い所から落ちるのは、これが初めてじゃない。握った手のひらに、じわりと嫌な汗を感じる。
「落ちる前に、なんか一言面白いことでも言えよー」という教官の言葉に応えるようにして、男子学生たちから順番に叫んで落ちていく。
落ちる、そのとき。支えてくれるのは、腰につけた二本のロープだけ。自分が結んだロープを信じる。ただ、それだけのこと。だけど。
「顔が青い」
ぽそりと呟かれて、ハッとする。頭上では、「入校前日に、息子が生まれましたーッ!」と叫ぶ学生がいて、周りではみんなが、「フォール」のかけ声の代わりに「おめでとー!」と声援を送っていた。
「レンジャー、志鷹」
「あなた、救助のときにはそのロープで相手結んで支えるんでしょ。それで担架とか搬送すんでしょ? 自分の身も預けらんないような縛り方で、他人を助けられるの?」
──そんなこと、言われたって。
思わず心に浮かんだ言葉を、必死に打ち消す。志鷹三曹は、間違ったことは言っていない。本当に、そういうことだし。
「だいたいねぇ」と志鷹三曹は、上を見上げたまま続ける。
「まだこれから、そういう訓練山ほどあるんだから。わたし、嫌なんだけど。こんなのも跳べない相手に、自分の身体預けるの」
「──ッ」
反射的に、なにかを言いかけた。間髪をいれずに「レンジャー小牧!」と呼ばれたあたしは、なにを言おうとしていたかも忘れて、反射的に「レンジャー!」と答えていた。
「てめぇの番だよさっさとしろ!」
「レンジャーっ」
教官に促されて、塔を登る。もちろん、登るにもロープを使ってで。ふと、あぁ来る前に田端さんがロープのこと言ってたな、なんて。不意に、思い出した。
上まで来て地面を見下ろすと、ぞくりと背筋を、冷たいものが走り抜けていった。人間が、一番恐怖を感じる高さ──本当に、こんなテストを考えた人は趣味が悪い。
ロープの摩擦で擦り切れた手のひらで、上に張られたロープをぎゅっとつかむ。息を吐いて、今度は下のロープに足を踏み出す。
腰には、ぎちぎちに巻いた二本のロープ。痛い。けれど、痛いくらいじゃないと、落ちたときに反動で、自分の身体を傷つけてしまう。
残暑のムシムシとした風が、ロープと身体を揺らした。
──大丈夫。あたしは、大丈夫。ちゃんとやれてる。縛るのだって、夜の間稽古で、ちゃんと教わったし練習もした。このロープは、信じて、良い。違う──信じなきゃ、ダメだ。
なのに、心臓はバクバクとうるさい。両腕から、ぞわぞわと鳥肌が立ってきて、汗が頬を伝う。
(気持ちわりぃヤツ)
不意に、耳元で囁かれたような気がした。それは、小学生の頃の、クラスメイトから投げつけられた言葉だった。
当時、転校したてだったあたしは、なかなかクラスに馴染めなくて。そのうち、クラスのガキ大将みたいな存在だった男子たちに、目をつけられた。
最初は、他愛もない嫌がらせだったけれど、「へらへらしててバカみてぇ気持ちわりぃ」と、それはエスカレートしていって。ある日、階段から突然に突き落とされた。
──忘れてた。そんなこと、もう忘れたと思っていたのに。
それでも、身体はそのときの恐怖を思い出して、ぶわっと汗が全身に吹き出してきた。
真ん中まで来たところで、下を見る。教官に、助教たちに、学生ら。みんな、あたしがなにか叫ぶのを待っている。その目が、階段から落ちながら見えた、いじめっ子たちの目と重なって。思わず息をのんで、ロープをつかむ両手に、ますます力が入ってしまう。
でも。そのなかに、薄い茶色の瞳が、一際輝いて見えた気がして。その涼やかな目で、値踏みされているような。挑発されているような。
──あなた、跳べないの?
──そんなんじゃ、わたしのバディとしてぜんぜん釣り合わないんだけど。
幻聴に、唇を噛む。本当に志鷹三曹がそう考えているのかなんて、あたしには分からない、けど。
訓練が始まる前に、そう言えばあたし、志鷹三曹に言ったんだ。──自分はまだまだやれるんだぞ、もっともっとのびるんだぞ、って。そう胸を張りたいんだって。
そうだ。釣り合わないかどうか──あたしは頑張ればできるやつなんだって、そう、見せるんだっ!
(フレー、フレー、小牧)
脳裏によぎったのは、田端さんの応援の声で。その声に励まされながら、固く握りすぎた手の力を、少しずつゆるめていく。
そうだ。田端さんとも約束したんだ。こんなとこで、あたしは帰れない。
「フレー、フレー、小牧……!」
声は震えていたけれど。自分に向けて送ったエールが、背中を軽く、押してくれる気がした。
大丈夫。あたしは、できる。やれる。
あたしは──!
「──アッキー、やるなぁ」
あらん限りの声で叫んで、無事、跳び落ちてきたあたしに、こそっと耳打ちしてきたのは小塚さんだった。あたしは思わず、教官や助教たちから見えないように、小さく小さくピースした。久しぶりに聞いた、小塚さん独特の呼び方が、ちょっとだけくすぐったい。
見上げると、志鷹三曹がもうロープの真ん中まで来ていた。風で上下に揺れる姿を見て、あたしは自分が飛んだときみたいに唇を噛んだ。
志鷹三曹の顔は、まるで凪いだ湖面みたいで。身体が揺らされても、ピクリともしない。
「──レンジャー志鷹」
よく通る声が、上から響いてくる。その姿をじっと見つめていると、遥か高みにいる志鷹三曹の息づかいまで、聞こえるような気がした。
ふぅうと、肺の中身を吐ききって。それから、すっと新鮮な空気を吸い込んで。志鷹三曹が、ぐっと前を向く。
「わたしは──負けませんッ」
凛とした、短い宣言。
ポカンとして待っても、続きがないことに気がついたあたしたちは、慌てて「フォール!」と叫んだ。途端、待ちかねたように「レンジャー!」という声とともに、身体が宙に舞う。
ピンッと腰からのびたロープが張って、身体が上下に大きく揺れる。逆さ釣りになった志鷹三曹と目が合いかけて──でも結局合わなかったのは、志鷹三曹がさっさとロープにしがみついて、進み始めてしまったからなのか。それとも──あたしが、そらしてしまったからなのか。
戻ってくる志鷹三曹の駆け足を後ろに聞きながら、あたしはぐるぐるとうるさい胸をおさえて。ただただ前を、力を込めて見つめていた。
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