癒し処 猫の泉【KAC20229】

あきのりんご

癒し処 猫の泉

 仕事で失敗した。疲れた。もうやだ。会社に行きたくない。だからといって家にも帰りたくない。もうやだ。暗闇の中に消えてしまいたい。

 二十七歳OL。勤続五年も経つのにいまだに要領の悪い自分に幻滅する。

 ぼーっと帰り道とは反対方向の電車に乗り、適当に降りた。

 そのまま街をフラフラと歩く。

 繁華街なんて滅多に訪れることがない。

 でもネオンがギラつき、大勢の人が行き交う通りを歩いていると誰からも気づかれず話しかけられず、透明人間になれたような気がする。

 いつもならしばらくフラフラ歩けば気が済むのだけど、この日ばかりは違った。

 普段よりも激しく怒られたからだろうか。

 仕方がない。

 がっくりと項垂れながらトボトボと歩く。

 今日のミスはこれまでと違ってあまりに大きすぎた。

 思い出しては死にたくなるので、大きなため息を吐く。

 歩くうちにトン、と何か大きなものにぶつかった。


「おっと」


 頭の上から聞こえる声。

 しまった、人にぶつかってしまったか。


「す、すみません、ぶつかってしま……って……!?」


 顔を上げれば、こちらを覗く白くて大きな猫の顔。

 思わず息を飲んだ。

 何? 何なの? 化け猫?

 思いっきり目を見開いて変な顔になっていたと思う。

 すると猫がしゃべった。口を動かさずに。


「お姉さん、大丈夫?」


 そうか、着ぐるみか。

 それならこの大きさも納得だ。

 どれだけ大きいかというと身長一五五センチの私を上から見下ろし、幅も顔だけで私の両手を広げたぐらいの大きさだ。


「あ、あの。私は大丈夫です。こちらこそ、ぶつかってごめんなさい」


 すると猫は笑った……ように見えた。

 着ぐるみだから表情なんて変わるはずないのに。


「こっちは大丈夫。ほら、こんなに大きな肉襦袢だから」


 そう言って猫は自分の身体を両手でポンポンと叩いてみせた。

 大きなオーバーオールを着たお腹がたぷんと揺れている。


「ぷっ」

「あ、笑ったね。笑顔の方がいいよ」


 優しいその言葉に思わず涙が出そうになる。

 すると猫――正確には着ぐるみだが――は、胸のポケットから名刺を取り出した。


「お姉さん、お疲れだねえ。はいこれ」

「?」


 名刺にはこう書いてある。


 癒し処 猫の泉

 支配人 猫泉 成


「猫泉……成?」


 なんだかどこかで聞いたような名前だ。


「お姉さん、猫は好き? アレルギーはない?」

「えっと、ええ、まあ」

「OK。それじゃあ騙されたと思って」


 そう言って猫は私の肩を掴んでくるりと身体を回転させた。

 目の前には『癒し処 猫の泉』という看板のかかった扉。


「えっ? えっ?」


 観音開きの扉が開き、猫が店内に呼びかける。


「一名さまご入店~」

「あの、私、店に入るつもりなんて」


 回れ右で出ようとするけど猫に肩を掴まれたまま、押されてどんどん明るい店内へと進んでいく。

 眩しい。ずっと下を向いて歩いていたこともあり、いきなり眩しい店内は目を開けていられないほど眩しかった。


「だいぶお疲れですねえ。ここは一発、仔猫まみれコースでいきましょう」

「仔猫まみれ……」


 それはちょっと惹かれる。

 やっと眩しさに目が慣れてまわりを見回すと、そこは十畳ぐらいの真っ白な部屋だった。

 真ん中には白い三人掛けサイズのソファーがぽつんと置いてある。


「ちょっとそこに座ってて」


 そう言うと、着ぐるみの猫は部屋を出ていった。

 仕方なくソファーに座ると、部屋の壁の一部に小さな扉がついていることに気づいた。

 高さが三十センチもない。

 扉といっても、取っ手のついたものではなく、上が固定されて前後にパタパタと開くタイプだ。小動物でも出入りするのだろうか。


「みゃあ」

「みゃああ」

「うにゃあ」


 扉がパタパタと動いて、壁の向こうから仔猫が次々に入ってくる。

 白、黒、茶トラ、ブチ、ハチワレ、三毛……。

 びっくりして固まっていると、仔猫はソファへよじ登り、座っている私の膝の上に登り、腕をよじ登り肩に登り、頭に登ってくる猫まで。


「ひゃああああああ♡♡♡」


 思わず嬉しい悲鳴があがる。

 私はずるずるとソファに横たわる体勢になった。

 すると仔猫たちは私の上に乗ってくる。

 中には私のお腹や太腿をふみふみマッサージしてくれる猫もいる。

 ここは天国か?

 仔猫にまみれてこのまま死んでもいい!


「うひゃっ」


 仔猫とはいえ、ざらざらした猫の舌で舐められるとちょっと痛い。

 思わず舐められた手を引っ込めてしまった。

 私の手を舐めていた茶トラの仔猫は、舌を出したままこちらを見つめて首をかしげる。

 く……っ、かわいい。

 かわいさが爆発している。


「いいよ、好きなだけ舐めていいよ」


 手を戻すと嬉しそうに舐めてきた。

 ざらざら。

 ちょっと痛いけど、これも幸せな痛みだ。


 そうやって猫にまみれてどれほど時間が経っただろう。

 サービスタイム終了の時間になったようだ。

 仔猫たちは出てきた扉から壁の向こうへ戻っていく。

 最後の一匹だけ、こちらを振り向いて「にゃあ」と挨拶していった。

 私はニコニコ顔で見届けた。

 口角が上がりっぱなしで痛いほどだ。

 ああ、幸せ。

 つい数時間前まではどん底気分だったのに、こんな幸せな気持ちになれるなんて。

 かわいいは正義。

 ソファから立ち上がり、顔の筋肉をほぐしながら出口に向かおうとくるりと振り向いた。


「え?」


 何が起きたのかわからない。

 目の前にはさっきまで歩いていた通りが広がっていた。

 すれ違う人とぶつかりそうになり、慌てて避ける。

 時計を見ると、さっきより一時間は経っていた。

 きょろきょろと見回すと、電柱にボロボロになったポスターが貼られていることに気づいた。

 そこに描かれていたのは猫泉成だ。

 そしてさっきまで私がいたはずの店はどこにも見当たらない。

 一時間、私は夢を見ていたのだろうか。

 立ったまま?

 いや、おかしい。

 わからない。

 でも、気持ちは幸せだ。

 明日、また仕事を頑張ろう。

 そう思いながら家路についた。


『疲れてしまったら、またおいで』


 遠くに猫泉成の声が聞こえた気がした。

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