第二章 体育祭⑤
少し焼けた肌がざらりと剥がれた感触がする。地に擦れた表面から徐々に痛みが伝播してきた。神経を伝って体内をズキズキと駆け巡る。
無惨に転げ落ちた体軀は脳の伝達を無視し続けた。
他のランナーは数秒無様な姿を見下ろし、無情に愛花を抜かしていく。
遠くなる足音は愛花の網膜に掠れて映る。
意志を持ったかのように愛花からコロコロと離れていくバトン。右腕を伸ばすもその距離は縮まらない。
揺れる地面に倒れ込んだ愛花は会場内の視線を総なめにしていた。
歓声が会場内から消える。
熱狂が空気を読んで止んでいく。
愛花のクラス以外はバトンがアンカーに渡る。
凍った空間を無機質にこだまするアンカーの足音。
その時、二人は足を一歩踏み出した。
「まな」
「桃川!」
しかし、2歩目を進めたのは緑のバトンを持った者のみだ。
覆われた声と共に黄色のバトンを待つ者は下唇に力が入る。
隣で駆け出す敵クラスの松風を舟木はただただ凝視するしかなかった。
松風は緑のバトンを渡したクラスメイトを横切り逆走していく。
生まれたての子鹿のように立ち上がれない愛花の前へ松風は急ぐ。
静寂は、深みを増していった。
一位のクラスがゴールテープを華々しく切ったが、それを見ていたものはいない。皆の視界に映るのは風を纏う一人の男子のみだ。
愛花の顔に張り付いた砂はポタポタとまばらに落ちていき、頬に凹凸が出来上がった。
ふと、膝あたりを見たら地面に赤黒い血液が滲んでいた。うまく肺の中の空気を入れ替えられない。
痛がる声も出せない。ただただその場でもがくのみ。
そんな中、切迫した足音が近づいてくる。
どんどんとその音量は大きくなり、やがて姿を表す。
「大丈夫!?立てる?」
歪んだ瞼の奥で膝をつく松風。その表情に余裕はない。全体的に後ろに傾いた松風の髪は緊迫感を愛花により感じさせた。
松風はそのまま愛花の顔を覗き込み、目線を合わせる。太陽をバックに肩を貸す松風はとても輝いて見えた。
そして、対照的にクラスの思いをつなげることができなかった自分に腹が立ち、情けなくなった。
いつも威勢がいいだけで何もできない。
いろんな人に助けられてばっかりだ。
「ご、めん、、。」
松風に重心を預け、愛花は立ち上がる。
少しよろめいたがそれも松風が支えてくれたことで転ばずに済んだ。
「アンカーにバトン届けなきゃいけないでしょ?」
松風は拾った黄色いバトンを揺らしながら優しく微笑む。
視線を集約した2人はゆっくりとトラックを歩く。
自然と視線は気にならなかった。というか、体中を鈍い痛みが未だに支配していてそれどころではなかった。
2人が歩く先にいるのは立ち尽くす舟木。
その表情からは沢山の感情が伺えた。
舟木と愛花の距離は5m。
「はい。これ。」
松風は優しく笑いながら黄色いバトンを愛花に渡す。その笑顔で、愛花の痛みは少し和らいだ気がした。
渡されたバトンをしっかりと受け取って、愛花は舟木に腕を伸ばす。
眉がピクっと動いた舟木はそのバトンに手をかけた。
しかし、それを受け取るまでには少し時間がかかった。
「ありがとう。」
舟木から出たその言葉は、どちらに向けられたものなのかわからない。
ただ少し掠れて、今にも消えてしまいそうな声色をしていた。
役目を終えた愛花は橋村の肩を借り、コースから外れる。
コースに残った二人のアンカーは愛花の背中をそれぞれの思いで見つめていた。
舟木は一度息を吐き、正面を向く。
そして、走り出す姿勢に入った。
「何してんの。置いてくぞ。」
固まって舟木の様子を見ていた松風はその言葉で動きを再開する。
床に敷かれた一本の白いライン。そこに並ぶ舟木と松風。
会場は固唾を飲んで二人の行動に見入る。
緑色と黄色。もうゴールテープはとっくに千切れているのに、二つの色の勝負はこれからだった。
「ふっ。めんどくせえな。」
周りにいる来賓に聞こえるか聞こえないかわからないぐらいの呟き。
その男は両手を口元に当てた。
「よーい!」
聞き慣れない声がどこからか飛んでくる。いや、正確に言えばこんなに張り上げた声を聞いたことがない。声自体は耳馴染みがある。
緊張に包まれている空気を打ち破ったのは張間だ。
先生や保護者がたくさんいる空間から目一杯の合図を届けている。
張間の声とともに二人は足を踏み込み、あの瞬間を待つ。
愛花はそんな二人の様子を瞬き一つせず見守る。
「どん!」
その声とともに勢いよく舟木と松風は飛び出した。
緊張と緩和。この会場にいる人間全員の熱はまた上がりだす。
閑静から歓声へと変貌を遂げていく観客席。その前を勢いよく突っ切る舟木と松風。
アンカーはトラック半周の150mを走る。
現在優勢なのは舟木だ。力強く地面を踏み締め、大地を駆ける。
そのあとを必死に追いかける松風。決して大差はついていない。
皆の応援の音量はさらに上がっていき、温度がまた上昇し出す。
舟木が持っている思い。松風が持っている思い。
二人が巻いているはちまきに書かれた一人の女子からの応援メッセージ。
周りの応援よりも、どんな賛辞よりも、その一つの言葉が力をくれる。
その言葉だけで誰よりも頑張れる。
残り80m。ここで順位は入れ替わった。
体力を温存していた松風は足の回転数を上げる。強く握りしめたバトンを目一杯振り上げた。
垂れた汗は空中に置いていかれてゆっくりと落ちていく。
どんどんと小さくなっていく松風の背中を見て、舟木は歯を食いしばった。
今持っている全てを使ってこの距離を詰めていく。負けじと食らいつく舟木。
これ以上置いていかれたくない。
これ以上遠くに行かせるわけにはいかない。
残り30m。もうコースの終わりは見えている。
その時、松風の視界に舟木は現れた。
松風と舟木の目線は一度ぶつかる。
会場の熱狂は最大になった。全員がこの戦いを見届けようとしている。
裂けるかもしれないと思うほどに揺れる地面。
残り10m。隣に並んだ二人。
あともう少し。一進一退の攻防は熾烈を極める。
どこよりも輝いている、青春の1ページ。
その瞬間は愛花の失われた青春に新たな色を加えた。
もう一度張られたゴールテープを切ったのは、松風だ。
コンマ1秒ほどの僅差。
しかし、それはどんなものよりも遠く感じた。
舟木には一歩届かなかった。
僅かすぎる距離を縮めることは舟木には敵わなかった。
拍手や雄叫び、喝采がたくさん飛び交う。
5位だった松風にも6位だった舟木にもたくさん人が押し寄せる。
まだまだ熱は冷めやらなかった。無数の人間が熱狂の渦を作る。
興奮を目に見えさせる。
舟木は膝に手をつき、体に酸素を取り込んだ。
「はあ、はあ、はあ。」
アドレナリンが止まらない。
体の震えが止まらない。
「伸吾ー!かっこよかったぜ!」
必死に汗を拭う舟木の元へ人混みをかき分け、陸治が特攻してきた。豊満な二の腕を目一杯広げ、舟木を包む。陸治は満面の笑みでこめかみあたりをぐりぐりといじる。
「いやー!あはは。ごめん。、、、、負けちゃったわ。」
「関係ねえよ!俺の中では一位だぞ!」
陸治の舟木への力はさらに強くなる。
「そうだよ!」
「最高だった舟木!」
「すげえよ伸吾!」
鼓膜を揺らす沢山の励ましを舟木は片手間で捌く。
彼がそれ以上に動かしているのは目だ。
負傷した愛花が見当たらない。
視界に嫌というほど入ってくる人影はいつしか障害物になり、周りの声は騒音へと変わっていった。
無事保健室に行けたのだろうか。
黒目をどれだけキョロキョロと動かしても彼女はいない。
「いや、ちょっ、ごめん」
体に人という圧力がかかって身動きの取れない舟木はただただその場でもみくちゃにされるしかなかった。彼の声は、誰にも届かなかった。
「何よ。」
暑さが支配しているグラウンドとは一転。ここはちょうどよく日陰ができて涼しい。
寒気がするほどに。
「茅野さんでしょ。これやったの。」
薄暗い体育館裏に、2人の女子が向き合って立っていた。その間に流れる空気は驚くほど冷えている。
くしくも、以前の過去で茅野が松風に振られた場所と同じ。
しかし、違うのは松風が助けに来ることはないということ。ひとりで、この問題を解決する。
遠くの熱狂を聞きながら、愛花は自分の右足を指差した。
土で汚れて、血が滲んでいる。生々しい傷口。
そして、不自然に切れた靴紐。
「は?」
「あなたは私のランニングシューズの靴紐を切断されるギリギリのところまで切った。」
茅野の機嫌はあからさまに悪くなった。
眉と眉が近づき、愛花を睨みつけてくる。
「また桃川さんは言いがかりをつけるの?失礼じゃない?」
茅野の牙城はまだ崩れなかった。
長く艶のある髪を指で巻き、嫌味な笑顔をこちらに食らわせてくる。
ただし、愛花がもう怯むことはない。
「言いがかりじゃない。」
静かなこの空間においてにおいて優位なのは愛花だ。
額から汗を流す茅野。
唾を飲み込む愛花。
「連れてきたよ。」
突如、後ろの木陰から人が現れた。
いつものように天真爛漫な声色ではない。
「ありがとう。橋村さん。」
そして、橋村の横に新たな人物が現れる。
橋村は袖を引っ張り茅野と愛花の間に立花を送る。
「ほら、本当のこと言ってよ。」
腕を組んで冷静いや、冷徹な言葉を投げかける橋村。その瞳には光が灯ってない。
「わ、私は、、彩華に命令されて仮病しました。ごめんなさい。」
逃げ場のなくなった立花は喉を震わしながら自白を始める。目はどこか潤んでいて、ひどく怯えている様子だ。
茅野の表情は段々と強張り出す。
「あと、、、桃川さんのランニングシューズに切り込みを入れたのも私です。そして、、、それも彩華の命令です。」
今の茅野にはもう、余裕はなかった。
上がっていた顎がだんだんと引かれ、茅野は四面楚歌となった。強く鋭い目線はどこかに飛んでいき、ただただ地面をやけくそに見つめるだけ。
そして、愛花は茅野との距離を詰める。
「茅野さん。松風くんのことがまだ好きなの?」
茅野の顔は上がらない。
「、、、、、かるのよ。」
ポツリと飛び出す自信のない言葉。
その言葉を皮切りに茅野の目からは涙が溢れ出す。
体育着の裾を握りしめ茅野の感情は爆発を起こす。
「っ!あんたに何がわかるのよ!」
赤く腫れた顔で茅野は愛花を睨みつけた。
今までとは違う、何も取り繕わず、何も余裕ぶらない茅野。全てが破裂した反動は愛花に直撃する。
全部を受け止めることはできない。
そんな器を愛花は持ち合わせていない。
ただし、少しだけでも。
茅野の何かを変えれたら。
「分からないよ。でも、こんなことしてもなんの意味もないじゃん!」
体の奥底から湧き上がってくる力。
茅野との決着を自分でつけるためには、自分の身も削らなければいけない。
「これで松風くんが喜ぶの?これで、何があなたは得るの?なんで!こんなことするの?直接言ってくればいいじゃん!他人を巻き込まないで!一人で、私と戦ってみなさいよ!」
頭で考えるより先に口が動く。今まで溜まっていたものが吐き出される。
「ごちゃごちゃうるさい!!」
茅野は大きく地団駄を踏んだ。頭をかきむしり、鬼の形相でこちらを向く。
今までで一番、鋭く強い目つき。そして、一番悲しそうな瞳。
「もう、松風君と、私たちと関わらないでください。」
愛花の頬を一粒の水滴が伝った。
もう、歯止めは効かない。二人は、ぶつかる運命なのだ。ぶつかることでしか、この問題は片付かない。
「なんで、、、なんでよ!なんであんたなのよ!なんであんたばっかり恵まれてるのよ!何もしないで欲しいものが手に入って!味方ばっかりで!」
茅野は勢いに任せ、愛花の胸ぐらを掴んだ。
愛花は少しよろめいたが、動揺はしなかった。
橋村と立花はその場をただ唖然としながら見るしかできない。
濡れた顔は化粧が崩れ、決して綺麗とは言えない。
「茅野さん、、、。変わろうよ。」
愛花は茅野の肩を掴み揺すった。
掠れた喉で必死に嘆願する。
心の底から。
「っさわらないで!」
腕を振り払い茅野は涙を拭いながらその場を後にした。
ドタドタと必死な足音がその場に後味悪く残る。
グラウンドから少し離れたところにある花壇を松風は歩いていた。
ようやく盛り上がりがひと段落し、松風は人の群れから抜け出せた。愛花が心配で保健室に行ったのだがいないと言われたので現在、愛花を探し中だ。
そんな時。
前方から聞こえる小刻みの走り音。
それはじわじわと近づいてくる。
松風は目を見張り、その後の正体を刮目した。
「、、、、茅野?」
純粋な疑問の声に呼応し、茅野は顔を松風の方へ向ける。
「ゆうい、、、松風。」
茅野はすぐに乱れた顔を隠す。
「よりにもよってなんでいるのよ、、、、。」
腕に覆われ、つぶやいたその声は松風の耳には届かなかった。
「なぁ。桃川みなかった?」
「知らない、、、、。」
茅野は松風の横を走り去った。
「桃川!、、、、、やっといた。」
松風が愛花のところはたどり着いたのはそれから5分後のことだった。橋村は実行委員の仕事があるので任務を終えたらまたグラウンドに戻った。
立花と2人残された空気はだんだんと氷解し、ただただやるせなさだけが愛花の中に残っていたところだ。
松風の姿が現れると立花はもう一度愛花に謝り、2人の前からいなくなった。
「松風、、、、くん。」
「怪我、大丈夫?なんでこんなところにいるの?」
松風は愛花の顔を覗き込んだ。
しかし、愛花と目は合わない。
「高校一年生で起きたこと。教えて。」
松風に嫌われてもいい。ただ、現代での行方がわかるのであれば。
顔を見ることは出来なかった。
立ち尽くし、松風の返答を待つ。
隙間風が吹き抜け、熱くなった体を冷やす。
息を殺して、目を瞑る。
「母親が死んだ。」
松風の言葉の意味を理解するのには少し時間がかかった。
茫然としている愛花にさらなる追い討ちがかかる。
「いや、殺されたんだ。」
体育祭はまだ始まったばかりなのに、ひどく長く感じた。そして、愛花はそれ以降の体育祭の記憶をあまり覚えていなかった。
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