第二章 体育祭④

「痛!いたたたたた!」

適度な緊張感のクラスに甲高い声が鳴り響いた。

教員たちの綱引きが無事終わり、次はいよいよ愛花たち2年生のクラス対抗リレーである。アンカーの舟木を中心にクラスの士気はじわじわと上がってきていた。各々がストレッチをしながら、グラウンドへの入場を待っている。

そんな矢先のことだ。耳に響く声の主はクラスメイトの立花たちばな

いつも茅野の隣にいる吊り目の女子だ。いわゆる茅野の手下。身長は愛花と同じぐらいでモデル体型の茅野と並ぶと少し見劣りしてしまう。

「ん?どうした?大丈夫か!」

暑い大地に膝をついた立花に舟木がすぐさま駆け寄った。

舟木が近づくにつれ、徐々に立花の顔は歪んでいく。

「いや、ごめん。無理かも、、、、、。」

唸り声を上げながら立花は倒れた。熱気が包む一同にバタンという鈍い音がかけめぐる。周りの目線は徐々に一点に集中していく。

呆然として立ち尽くす者、舟木に続き駆け寄る女子たち、困惑や心配の表情を浮かべるものもいる。

「大丈夫?立てるか?」

舟木は険しい表情をする立花の頭を起こし必死に問いかけた。しかし、立花は小さく口を開けるのみで声が出てこない。

すぐさま立花の肩を担ぎクラスのみんなに舟木は宣言する。

「保健室行ってくる!」

注目の的はそそくさとスポットライトから外れていく。

慌ただしさは他のクラスにも伝染し、舟木と立花がいたところを中心に円ができていた。

愛花は一連の出来事を少し驚きながら眺めていた。しかし、苦しんでいる立花に駆け寄った女子の中にあの人がいなかったことに少しの違和感を覚える。

そしてその違和感は化けて現れた。

「立花さんって、アンカーの一個前だよね?」

「どうするの?」

「誰か代わりに走るんじゃない?」

クラスのざわめきは嫌なほど愛花の耳に入ってくる。脳みそにノイズのようなものが駆け巡り肺が大きく膨らんだ。

そう、立花の走順はアンカーの一個手前である。舟木にバトンを渡す重要な役目だ。

グラウンドにあった太く長い綱はとうとう姿を消し、とうとう2年生のクラスリレーが始まろうとしている。

周りにいた野次馬は自分達のことに集中し始め、姿を消す。

愛花のクラスのみが落ち着きを取り戻せない。

そんな時だった。

皆の鼓膜が一斉に揺れたのは。

「みんな落ち着いて!不測の事態だからこそ力を合わせようよ!」

どよめくクラスは先程まで騒がしさが嘘かのように静まった。

皆が見つめる先にいるのは、茅野だ。

しかしその姿はいつもの落ち着いていてどこか冷めている茅野ではなかった。

「今はもう、立花さんがいない場合を想定して動こう!」

茅野は一生懸命身振り手振りを使い周りに自分の意見を伝えようとしている。しかしそれは空回りしているというか大袈裟というか。

全員に自分の言いたいことを届けるために少し高くした声はどこか愛花に嫌な予感を思わせる。

「確か大会のルールとしては女子の交代は女子しかしちゃいけないんだよ!だから誰か代わりに2回走るしかない!」

じっとその演説を聞いていた皆の表情は徐々に明るくなっていった。

「ここまでみんなで頑張ってきたんだから!最後の最後まで頑張ろうよ!」

茅野の情熱は徐々に周りへ伝播していく。

やらせかのように周囲の空気は一体化していき、熱波が湧き上がってくる。

クラスメイトはそうだね!とか確かに!とか目に見えてボルテージが上昇していった。愛花にとっては嘘くさい笑顔でもそれは周りを活気づけるには十分であった。

そしてその熱意は一度拡散されたら止まらない。

視界が歪むほど急激に温度が上がっていき、愛花は一瞬の立ちくらみを覚えた。

「よーし!頑張ろうー!!」

「おー!」

陸治や橋村などがさらに純度100%の追撃をかまし、クラス中が闘志に包まれていく。拳が掲げられ、皆が一位という一つの目標に向かって走り出す。

ただ一人、愛花のみがこの中で取り残されいていた。

茅野の言葉はどこか冷めて聞こえる。裏側にある醜い何かを敏感に感じ取ってしまう。

「じゃあさじゃあさ!誰が走るの?」

陸治がニコニコと茅野へ質問飛ばした。

問いを投げかけられた本人はわざとらしく顎に手を当ててうーんと唸る。

茅野を含む全員が周りをキョロキョロと見回し、さまざまな目線が交差していく。ここにいる人間は皆、他人に何か言われないと行動できないんだろかと愛花は少し心の中で悪態をついた。まあ、その言葉はそのままそっくり自分に突き刺さるのだが。

そして、一つの指先がある場所に向けられた。

細く、尖った指先。少し触れれば折れてしまいそうな、少し突き立てられれば貫通させられてしまいそうな指先。

茅野は鋭利な指先をある人物に一つの迷いもなく指していた。

その直線上にいる人物。

一人一人が糸を引かれたかのように顔を動かす。

たくさんの瞳には同じ人物がうつる。

愛花は約30人に同時に見つめられ、後退りをせざるを得なかった。

「桃川さん、走れない?」

茅野の情熱は突如として黒く変貌していく。

極端に上がった口角はイラつくほど堂々と愛花に向けられる。愛花の黒目は小さく萎縮し始め、眉間の谷が深くなっていった。

先ほどからうっすらと感じていた悪寒が嫌な形で出てくる。

「おー確かに!桃川って走る最初の方だよね!」

「桃川ならいいんじゃね?」

「いけるよ!」

あちらこちらから発せられる無責任な言葉は愛花の脳を突き刺して行く。橋村や陸治でさえも賛同し、頼みの綱の舟木はいない。

この場の舵を握っているのは完全に茅野であった。

期待と懇願の念が愛花にのしかかり、押しつぶされそうになる。

「ね?やってくれるよね?」

醜悪な部分を何も隠さなくなった茅野からの止めの一撃。

愛花はコクリと頷いた。


「なんかめっちゃ気合い入ってんな、、、。」

立花を保健室に無事送り届け、クラスの待つ場所へ戻ってきた舟木から無意識の言葉が飛び出した。

みんなの気が引き締まり、チームとして一体になっているのを肌で感じる。

赤いオーラが全身を纏い、瞼には炎がうきあがっている。

別に元々自分のクラスはやる気がなかったわけじゃない。しかし、明らかに皆の中で何かが変わった。帰るクラスを一瞬間違えたかと思うほどに。

目をぱちくりすることしかできない舟木は視界に入ってきた陸治を勢いよく捕まえる。両肩をがっしりと掴まれた陸治は一瞬体をゆらした。

「びっ、、くりした!なんだよ?急に」

「なんだよじゃねえよ!何があった!俺がいなくなったこの数分間でこのクラスに何が起こった!?」

わさわさと前後に全身が揺らされる陸治はとにかく一度舟木が落ち着くのを待つ。視界が高速に反復し、少し三半規管がやられたところでその動きは止まった。

口が空いたままの舟木を尻目に陸治はわざとらしく笑う。まだ肩は掴まれたままだ。

「ふっふっふっ、茅野が気利かせてくれたんだよ。」

「はあ?」

舟木の口はまだ塞がらない。

「立花はもう走れないだろ?だから手っ取り早く仕切って代走者を決めたんだ。」

腕を組み、不敵に笑う陸治。なんでこいつが得意げなんだ。

しかし、舟木の中では茅野という名前が何度もエコーして響いていた。そして、ものの数秒で嫌な推測が成り立つ。

杞憂だといいと心の奥底で祈りを捧げた後に舟木は満を辞してその質問をした。

「で、誰が走るんだよ?」

「ん?」

「だから、誰が立花の代わりを走るんだ?」

心臓がキュッと音を鳴らす。

「桃川だよ。」

その問いの答えを聞くと同時に舟木は彼女の元へと向かった。


「お前さあ。馬鹿なの?」

入念なストレッチの最中、聞き慣れた声が耳に入ってきた。

「な、何が?」

「運動苦手だろ。リレーなんて一番無理じゃん。」

そう話す舟木の表情は呆れを通り越して諦めへと変化していく。

「愛花は昔っから流されやすいけどさ、嫌なことはちゃんと嫌って言えよ。はぁ、いまからでも俺が言ってやろうか?」

ため息と同時に漏れ出る提案は、一瞬愛花の心を揺らがせた。しかし、それは甘えだと理解している。いっつも舟木に頼ってばっかりではいけない。現にさっき、茅野の演説中に舟木を探してしまう自分がいて反省した。

「いや、大丈夫!こうなっちゃったら仕方ない。私も全力でやる。それに茅野さんに負けられない。」

「まあ、愛花がそういうならいいけど。あと茅野も一応同じチームだけどな。」

舟木は軽く笑う。ただ、肩にポンと乗せられた手は少し重く感じた。

「そんなことはわかってるよ。でも、負けるわけにはいかないの。」

「あっそう。まあ俺は愛花が怪我しなきゃもうなんでもいい。」

ぶっきらぼうな返事には微かな温かみを感じる。

これは自分の問題なんだと愛花は心の中で気合を入れた。茅野との決着をつける。10年前に残したわだかまりを、一つ残らず片付ける。

「大丈夫だよ。」

愛花はくしゃっと笑いながら親指を立てる。

しかし、舟木からはその指はどこか不細工で不安そうに見えた。

「無理すんなよ?」

「うん。ありがと。精一杯バトン渡すから。」

舟木は真剣な顔つきで一度頷き、自分の立場へと赴いた。

ここで愛花がクラスの足を引っ張りヘイトを買うというのが茅野の筋書きだろう。

どこまでも陰湿で幼稚。やっぱり高校生というのはまだまだ子供なのだなと愛花はぼんやり思っていた。そんなものには負けない。

負けられない。


高校2年生が陽気な音楽と共にグラウンドへと走る。各々の足音が混ざり合い、一つの音曲へと昇華されていく。

「高校2年生のクラスリレーです。」

あまり気持ちのこもっていない透き通る声が会場内を通り抜け、会場の空気を変えていく。皆を見守る太陽のせいで、少し歩いただけなのに体温は上昇した。

そして、楕円形のグラウンドの四隅に各々がポジショニングしていく。

愛花には緊張と気合が交互に訪れ、ほぐしたはずの筋肉はまた固まりそうだった。1回目の走りはかなり序盤で、とにかく他クラスと差を開けられないようにすることが大切だ。

愛花が深い息を吐き出すと共に、開始の合図が鳴り響いた。

クラウチングスタートで勢いよく飛び出す、6人の男子たち。6色のはちまきがしのぎを削り、一進一退の攻防を繰り広げる。

風を切り、大地を蹴り上げるランナーたちはどこか圧倒されるものがあった。

そんな中、第二走者、第三走者と徐々にクラスの差が開いていく。

インコースを走り、誰よりも先頭を駆け抜けるのは緑色のはちまき。松風のクラスだ。

歓声を味方につけ、どんどんと空間が広がっていく。

そして、その後ろを3人挟み後を追うのが黄色のはちまき。愛花のクラスだ。現在の順位は5位でなかなか厳しい。

必死に目でその戦いを追っているとあっという間に愛花の出番へと時間が進んでいく。

運動が苦手な愛花はとにかく差を縮められないことをまず意識した。

胸を2回叩いて、コースへと出る。

どんどんと迫ってくる走者たちの顔は必死で、力を出し惜しみすることなく使っていた。

そして、黄色のはちまきが目の前へ向かってくる。

前走者との距離は10m。

愛花は足を踏み込み、走り出した。

足の裏への衝撃がどしどしと響いてくる。

首を90°ほど回し、後ろから伸びる黄色いバトンを視認する。思いっきり腕を伸ばし、バトンは愛花の手のひらの中へと収まった。

目線を前方へ戻し、さらに加速する。

走る距離は約80m。たった数秒の出番。

しかし、それが積み重なることでさまざまなストーリーが生まれ、明確な格差を見せつける。

愛花は足をフル稼働させ、とにかく腕を振った。

前方との距離は5mほど。だんだんと距離は近づく。

数分前からずっと早い鼓動はさらに速度を上げる。

目の前に見える景色はすぐに後方へ流れて行く。

全身で感じる風はどこか心地よい。

人々の声はするすると耳を通り抜けた。

先ほどの決意が脳にこだまする。


10年前に残したわだかまりを、一つ残らず片付ける。


そして、愛花は隣のコースを走っているランナーを一人追い抜いた。

自分のクラスから立ち止まっているクラスメイトが前に見える。

次の走者は陸治だ。

自分のバトンを待っている仲間がいる。

最後の数メートルを走る力を絞り出し、バトンを前へと掲げた。

陸治はその先端を手でがっちりホールドし、駆け出す。

「よっしゃあ!行くぞおお!」

どんどんと、陸治の丸いフォルムが小さくなって行く。

酸素を求める体内が悲鳴を上げていた。

膝の関節の力が抜け、足取りが怪しくなる。

耳にうるさいほど聞こえる自分の荒い息遣いはまだ治りそうにない。

目線が低くなり、視界全体を動く地面が占拠する。

流れ出る汗をひたすら拭いながら愛花は次の場所へと移った。


「うおおおおお!」

体だけでなく声もでかい陸治は野太い雄叫びを上げながら走り抜く。

その姿はなかなか迫力があり、決して速くはないが相手を警戒させるには十分だった。

上下に揺れる体の肉はボヨンボヨンとトランポリンのように跳ねる。

そして、そのまま次の者へとバトンが渡った。

愛花のクラスは4位のまま中盤へと突入する。

一位は依然として松風のクラスだ。

コースに茅野が入ってきた。

無駄な肉のない細い体は走っているクラスメイトを眺める。

少し軽く体を伸ばしてから、茅野は走り出した。

フォームはかなり安定していて速さも愛花に勝る。

バトンを受け取り、前へさらに勢いをつける。

綺麗に巻かれた髪を揺らしながら周りの人々の目を釘付けにさせて行く。

この広いコート上で長い足がかなり映えていた。

さらに、茅野は前にいる走者との距離をぐんぐん詰める。その顔は心なしか少し険しい。

そしてとうとう一人の敵を追い抜いた。

飛び上がるクラスメイトを横目に次の走者へバトンが渡される。

愛花のクラスは現在3位。

茅野への賛辞が飛ぶ中、戦いは激化していく。

段々と6者の差は縮まっていき、どこがどの順位をとっても違和感がないようになっていた。

そんな中、緑色のバトンを渡されたのは未凪だ。

走り出した未凪の肌は白く、血があまり通ってないように見えた。

精一杯走っているのはわかるが、どうも波に乗れていない。体をうまく使えていない印象を受ける。

未凪の後ろからの圧がどんどん濃くないっていく。

頑張って走っている表情はどこが痛々しい。

そして、王座は崩れた。

後ろから飛び出して行く走者たち。

それは愛花のクラスもだった。

未凪の手からバトンが離れた頃には未凪、松風のクラスは6位へと転落していた。

愛花のクラスは2位へと踊り出し、とうとうトップが見えてくる。

そして、それと同時に愛花の出番が差し迫っていた。

戦いは佳境を迎える。

残りの走る人数は3人。トップ争いが火花を散らす中、橋村が戦場を駆け抜けはじめた。

「いやっほーーーーー!!!!!」

心の底からこの戦いを楽しんでいる橋村は軽い体でコースを大地を踏み込む。

前方にいるたったひとりの走者は距離が近くなっていくごとに動揺の色を見せ、チラチラと後方を確認する。

笑顔を崩さない橋村はまるで風そのものになったかのようだった。

そして、愛花は二度目のコースへ降り立つ。

息切れは収まり、体は安定した。

しかし、どうしても精神が少しの何かで傾きそうになる。

ふともうひとブロック先を見ると、舟木が心配そうにこちらを見つめていた。

そして、その奥には松風の姿もある。

一度、息を吸い全身に酸素をめぐらす。

そんな中、会場では今までで1番の歓声が巻き起こった。

橋村が一位を抜かしたのだ。

前方に障害物が何もないまま、橋村はこちらは向かってくる。

したたら汗も後ろへ流れながら黄色いバトンがこちらへ向いてくる。たくさんの想いが詰まったバトンが愛花の元へ届けられる。

橋村とばっちり目を合わせ、愛花は走り出した。

熱くなったバトンは無事、愛花の指先を触れそのまま接触面が増えていく。

しっかりと受け取ったバトンを握りしめ、愛花はもう一度コースを駆けるのであった。

先ほどとは打って変わって抜かす目標がいない。

今しなければならないことはなんとしてでもこの順位を死守すること。

最高の状態でアンカーの舟木にバトンを渡すこと。

目線の先で舟木が微笑みながらこちらへ両手を伸ばし降っている。

みんなが繋いだものをここで台無しにするわけにはいかない。自然と足に力が入り、体が前傾姿勢になる。背後には常に何人もの視線を感じる。

みんなが自分を追い越そうと必死で食らい付いてくる。

舟木との距離は後20m。

そんな時だった。

右足の着地地点が割れたような感覚。

足場が不安定で、預けた重心と共に全ての歯車が狂っていく。

咄嗟のことに脳は何が起こったのかわからなかった。目線はだんだん下降していく。

視界が暗転し、体中が痛めつけられる。

鈍い音が全身をかき鳴らし、さらにたくさんの足が愛花の横を通り抜けていった。

砂埃で体が包み込まれ、息をするのもままならない。大事なバトンすらも、地面をコロコロと転がってしまう。

唸り声を上げることもできなかった。

その渦中、唯一何かがこっちへ向かってくる。

そして、視界が晴れた時。

ひとりの影が愛花の体を覆っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る