第二章 体育祭③
青い下地に少し白が滲んだ上空。全てを飲み込まんとする太陽。
緊張と情熱、興奮と閑静、輝き潤っている生徒たちの表情。
一人一人がさまざまな思いを抱える中、体育祭は始まった。
間伸びした校長の話は耳に入ってこない。まあそれは全員か。
整列した全校生徒の中、愛花は一人別の温度感で燃え上がっていた。
そしてそれは愛花の後方にいる一人の女子もである。苛立ちと嫉妬を含んだ視線が自分に注がれていることも愛花はわかっていた。
愛花と茅野の戦いは既に始まって終わっていた。そして、第一回戦の勝者は愛花だ。
現代で読んだ日記によると、今日茅野は愛花のランニングシューズを隠す。
そして、愛花は由莉奈のものを借りて履き慣れていない靴で走り、なんとか乗り切った。
起こることがわかっていると対策は簡単だ。上履き同様、学校に置いていかなければ良い。茅野の顔が険しくなったのも確認済み。
しかし、心配なのはここから。以前の過去ではランニングシューズを隠したことにより、それ以上の嫌がらせはなかった。
その唯一のものを防いでしまったことにより、これから何が起こるかわからない。何も起こらないのがいいが、茅野がこれで終わるとは思えない。
今日ここで起こる全てのことを乗り越えると愛花は決意し、みんなの思いが詰まった黄色いはちまきをおでこに巻いた。
いつの間にか校長の話は終わり、実行委員による選手宣誓が行われている。
ただまあ、10年ぶりの体育祭というのはなかなか心躍るものだ。
たくさんある問題以前に愛花はこの人生におけるビッグイベントに胸が昂る。
暑さによって既に意識が飛びそうになってる愛花は広がって行われたラジオ体操により、なんとか正気を取り戻した。
緩慢な動きでの体操を終えた後、愛花たちは自分達のクラスの観客席に向かった。
大体のクラスは担任の先生の指示に従って動くのだが愛花のクラスの担任は姿を見せなかった。皆が徐に彼の姿を探していると一人のクラスメイトが呆れた顔で一つの場所を指差した。
いつもの服装とはジャンルの違う装いの張間は既に来賓席のタープの影に隠れて溶けかけのアイスのように項垂れている。
こんなことは予想済みだと思うばかりに皆各々で行動し出した。
「通常運転だな、、、。尚ちゃん。」
気心の知れている舟木がやれやれと慣れたため息を吐いた
「ここからはしばらく一年生の出番だから待ちね!みんな水分補給忘れずに!」
姦しい空間の中を通る声は皆の耳に確かに届き、所々から返事が返ってきた。
さすが将来日本の大企業を動かす男だと愛花は心の中で圧倒される。
現代の自分より、10年前の舟木の方がよっぽど人格者ではないか。
そんなことを思っていると胸を突き刺されたかのような感覚が身体中をかけめぐった。いや、レーザーポインターを常に当てられているような。
その実態がなんなのかはすぐにわかる。
痺れを切らした愛花はとうとう茅野の方へ振り向いた。
視界に入ってくるのは顔を顰めている愚かな少女の姿。10年後の容姿に似ても似つかない女狐。
大人気ないとわかっていても、愛花は眼力を強めてしまう。
熱狂の渦の中で二つの視線が火花を上げてぶつかっていた。
「桃川!」
背後から聞こえるその声で頬は自然と紅潮する。
振り向いた愛花は1秒満たずして、声の主を探し当てた。
「松風君!」
「ふふっ、きちゃった。」
いつもは隠れている松風のおでこが緑色のはちまきにより大胆に露出されている。そのおかげでより一層、彼の表情は明るく見えた。
思わず高くなってしまった愛花の声に松風は優しさのこもった返答をする。
お互いがお互いの顔を見て自然と破顔した。
現在は一年生のクラスリレー中で由莉奈が走るのを待っていたところだ。
「妹さんは?あとどれくらい?」
「あと5人走った後。この差なら、まだ全然逆転できると思う!」
「おー!確かに。一緒に応援しよ。桃川は走るの中盤だよね?」
「うん!足引っ張らないように頑張らなくちゃ!」
愛花はそう言って気合を入れるように拳を上向きに握りしめる。しかし対照的に顔は下を向いた。視界から松風がフェードアウトする。
「大丈夫だよ。もっと自分に自信持っていいと思うよ?」
無意識背けてしまった目線はもう一度彼に引き寄せられる。
横から聞こえてくる穏やかな声は次第に大きくなっていた。
いや、距離が詰められていた。
松風の懐っこい笑顔との距離はわずか10cm。
鼓動が速くなる。
頬が熱くなる。
時が、止まる。
愛花はその景色から目を離すことができない。
瞬きを、呼吸を、思考をやめた愛花の顔にそっと彼の手が伸びる。
長く綺麗な手は赤く染まった頬に優しく触れた。
接触面から徐々に体温が波打って暖かくなっていくのを感じる。
松風の手が次に触れたものは、黄色い布。
その瞬間愛花の体の機能は全て再開し出した。
もう片方の手も反対側に持っていかれ、松風は少し傾いた黄色いはちまきを直した。
急激に乾いた喉から愛花は声を絞り出す。
「あはは。ありがとう。」
「お世辞じゃなくて本気だよ。桃川は自分が思ってるよりたくさんのことができるよ。」
松風は暖かく微笑む。
今松風の瞳に映っている自分の姿は、高校生。
なんでもできる。ここからやり直せたら。でも、それはできない。
可能性を狭めたのは自分だ。将来を閉ざしたのは自分自身だ。
「私は、松風君みたいになりたいな。」
頭で考えるより先に口が動いていた。
それは心の底から出た本音。
「俺なんか、なんもないよ。」
松風の眉尻が下がり、顔が逸れる。
そして、その姿は愛花の脳に鮮明に焼きついた。
こういう時限って愛花は頭をとてつもなく巡らせてしまう。
言いたい言葉がうまくまとまらない。
「あ、妹さん走るよ!」
愛花が沈黙を破ることはできなかった。
松風の誤魔化し方はいつも一緒だ。そして、愛花の小心さも。
「え?あ、そうだね。」
由莉奈はバトンが渡るとすぐに、かなりのスピードでトラックをかけていく。
意気揚々と前で走っている人たちを抜かしていった。
次の人間にバトンが渡ることには目の前に遮蔽物は一つもない。
「すげー!」
目をキラキラさせた松風は無邪気にこちらを向く。
愛花は今自分がうまく笑えているか心配になった。
周りの視線に気がついたのはこの瞬間である。
愛花はいわゆるイチャイチャを堂々としていたことを理解して、少し動きが小さくなった。
人気者の松風となるとやはり自然と視線を集めてしまう。というか、不釣り合いの愛花の方を見ているのか。
そしてそれはこの男も例外ではなかった。
「伸吾、桃川のこと見過ぎー!」
陸治に腹をおちょくられ、舟木は二人の光景をやっとシャットアウトできた。
「見てねえわ。」
力無い声で陸治の頭をぽんと叩く。
いつもの調子が出ないと自分でも実感できる。
コケたらすぐ泣くし、おままごとに付き合わされるし、意外と暴力的だし。
そんな幼馴染はとっくに姿を消しているのに。
自分に見せたことのない顔をする愛花を見るだけで満たされてしまう自分がいるのも悔しいとおもった。
「あいつが幸せならいい。その相手が俺じゃなくても。」
「青春してるねぇ。」
「はあ?」
ニヤニヤと面白がる陸治を舟木は呆れ半分で睨みつけた。
しかしその様子が面白いらしく陸治はさらなる追撃をかます。
「いっつも余裕ぶってるくせに桃川のことになるとすぐ顔赤くなる。あーあ、俺も恋したいなあ!」
その冷やかしはだんだんとボリュームアップしていった。
「ばかっ!声がでけえ!」
舟木は悪戯な笑顔で声を張る陸治の首を腕で慌ててホールドした。
わざわざ陸治が大きな声で唸るので周りの視線は愛花と松風からこちらへ移動していく。
耳の赤くなった舟木は慌てて愛花を確認したが彼女は松風との会話に夢中らしかった。
頭の中で安心と寂しさが混濁する。
でも、舟木の好意に気づいていないのは愛花だけだ。
そして自分が思っている以上に好きがダダ漏れていることに舟木自身は気づいていない。
たくさんの視線と気落ちが交錯する中、一年生のリレーは終了した。
一位は由莉奈のクラスだ。
ブルルと携帯が鳴った。
由莉奈がクラスの英雄となり、胴上げされているところを遠目で見ていた愛花はポケットから伝わる振動に気づく。
松風はクラスリレーの作戦会議をするために自分の席へ戻っていた。
画面に映った文字に愛花は少しの疑問符が浮かぶ。
「もしもしかなえ?何かあった?」
「愛花ー!ごめーん!来賓の人たちに出すお茶が思ったよりも大きくて、、、運ぶの手伝ってくれない?」
橋村のハキハキした声は電話越しでも表情が浮かんでくる。
「ああ、うん!今どこ教室?」
「理科室ぅ〜!」
予備のお茶を持っていくなんて本来、生徒がやる仕事ではないのだがその担当が張間だったと聞けば頷けるだろう。先ほど使い物にならなくなった張間を見つけた橋村が気を使い、その役割を買って出ていた。
元々橋村は体育祭実行委員の一人だからかなりの仕事があるというのに。
困っていることがあったらほっとけないのだろう。
愛花は席を立ち、親友のピンチへと駆けつける。
今いる観客席から反対側にある後者の入り口に小走りで向かう。
一年生のリレーが完全に終わり、体育祭は次の競技へ移行しようとしていた。
次の競技は教師陣によるエキシビジョンの綱引き。普段と違う教師陣の姿は見ものだ。校庭の真ん中に太く長い綱が運ばれていくのを横目で見ながら愛花は校舎の入り口に入った。
熱狂に包まれている校庭とは打って変わって校舎内は閑静で静かだ。
急ぎで靴を履き替え、3階にある理科室へ向かう。
いつもたくさんの人がいる場所に今、愛花は一人。
時々、自分が高校生ではないことを忘れてしまいそうになる。
元々運動不足気味の愛花にとって階段を登るというのはなかなかの重労働だ。3階に到達した時には肩は忙しく上下運動をし、息を整えるのに必死だった。
「お!愛花ー!こっち!ごめーん!」
元気に手を振る橋村に愛花は駆け寄った。
歪んだ笑顔で予想以上に疲れている愛花を見て橋村の表情は心配へと変わる。
「大丈夫!?」
膝に手を置く愛花の背中を橋村はゆっくりとさすった。
助けにきたはずなのに余計な心配をさせてしまったことに愛花は情けなくなる。
こんな時に限って橋村の大火傷が頭の中に映し出されてしまう。
愛花は汗と共に流れそうになった涙を体育着で拭った。
やっと息切れがおさまり、二人は理科室へと入る。
「うひゃー、確かにこれは一人では持てないね。」
理科室の中心には段ボールが15個ほど積まれており、その中の一つを持って来るという任務なのだが一つ一つの段ボールが異様にでかい。大人の男性一人ならぎりぎり持てそうだが、高校生の小柄な女子一人では到底持っていけるものではなかった。かといってヒョロヒョロの張間でも持てなそうだが。
「いやーほんとだよ。私たちのリレーも始まっちゃうからパパッと行こうか!」
橋村は髪を結び直し、腕まくりをする。段ボールの左側に橋村が手を添えたので自動的に愛花は右側へポジションセットする。
「せーので行くよ?」
「うん!」
愛花はほっと一息置いて橋村からの合図をまった。
「せーのっ!」
二人は一瞬目を合わせてから、ゆっくりとその段ボールを持ち上げた。
見た目に全く劣らないかなりの重量がのしかかる。
細く白い4本の腕は筋を張り、血管が軽く浮き出てくる。
「っ重!」
「ゆっくり行こう、、、!」
余裕のない表情の愛花と橋村は静かな廊下をゆっくりと横断していった。
電気は消されており、外からの日差しが不用心に侵入してきていてそれがこの建物内を照らす唯一の光となっている。
いつもより一回り薄暗い校内に二つのずり足が響いていた。
こけないようにそろりと階段を降りる。
時間が経てば経つほど体力は無残に奪われていく。
いつもは普通に降りる階段の段差がやけに深く感じた。
一階に到着し、二人は目を合わせて意思疎通に成功する。軽くなずいた後、その段ボールをドシッと降ろした。
「「はあ、、、。」」
筋肉が急激に緩み、汗が滝のように出て、荒い息遣いがシンクロした。
愛花は橋村を、橋村は愛花を眺めた。
お互いが顔を見合わせる。
その時、腹の奥底から笑いが込み上げてきた。
「っぷ!」
「ははははははは!」
肩は先ほどより小刻みに揺れ、首元は震える。
疲れたはずなのに、体はその行動をやめない。
まだ腕は痛い。でも、今の二人はそんなことは気にならなかった。
愛花は橋村と笑い合うだけで、日頃の鬱憤が晴れていくように感じる。
その笑い声が収まったのは30秒後のことであった。
「よし!行こうか!」
「うん!もうひと頑張り!」
汗を拭き取り、二人はもう一度その段ボールを持ち上げた。
光の奥から聞こえてくる盛り上がりへ向かって二人は歩を進める。
もう一度段ボールを下ろし二人は靴を履き替える。
人々の歓声を聞く限り綱引きは佳境を迎えているようだった。
息を整え直しまた移動する。
愛花は履き替えたランニングシューズが少し移動していることに気づけなかった。
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