第ニ章 体育祭①
目が覚めた時、心に渦巻いた感情はわからない。
ただ、予想外なわけではなかった。
みずみずしい体で朝食を食べながら愛花は思う。
爽やかで透明な空気を思いっきり吸い込む。
過去に戻った期間は15日間。そして、現在にいた期間も15日間。
つまり、自分の体は15日ごとに過去と現在を行き来する。
現在6月1日。
妙に冴え渡った頭は愛花の思考を円滑に運ばせていた。自分でも何故ここまで動揺していないのかと驚くほどに。
愛花は上機嫌で冷蔵庫にあった野菜ジュースを飲み干した。その姿は野菜ジュースの会社からCMが来てもいいんじゃないかと言うほどに輝いている。
なんだか今日は二重幅の調子が絶好調だ。そのおかげで愛花の気分と顔面偏差値を底上げしている。
時計を確認すると、思ったよりも余裕があった。
鼻歌が漏れそうになるのを抑えながらまた自分の部屋に向かった。
敷居を跨ぎ、ドアノブに手をかける。
そして、ゆっくりと愛花は扉を閉めた。
バタンという音と共に孤独な空間が完成する。
過去にやり残したことが沢山ある。
過去でやり直したいことが沢山ある。
過去の消したい後悔が沢山ある。
踵から込み上げてくる何かが愛花の血管を浮き出させていた。
喉に通る空気が針のようだ。
手が震える。いや、目の焦点があっていないだけか?
愛花は閉められたドアにもたれかかった。
冷たい感触を感じながら床に座り込む。
重圧が、重くのしかかる。
現在の自分が過去の自分に課した重圧。
後悔は、もうやり直せないと分かっているからするものなのだ。
あの時そうしていればなんて思えるのは、はなからあきらめているからだ。もう、消せない事実に。
実際に過去に戻れたとして本当に思い通りのことができるのか。
愛花は下唇を噛んだ。
赤く、儚い液体が顎をつたう。
体の異変は収まったようだ。
大きく息を吸い、伸びをした。
ワイシャツに袖を通し、髪を括りながら心を落ち着かせた。いや、心を奮い立たせた。
鏡で見た目が変じゃないかを確認した後に、胸に拳を当てる。
「大丈夫。いける。」
ぽつりとつぶやいた言葉は空間を漂う。
目を閉じて、もう一度深く深呼吸。
全身に酸素を巡らせる。
「えーと、大丈夫?」
愛花の精神統一兼心頭滅却は鶴、いや妹の一声で終わりを告げた。
あまりに心にこもりすぎてドアが空いたのに気づかなかったようだ。
慌てて振り向いた時には由莉奈が怪訝な顔つきでこちらを見ている。
愛花は自分の乱れた顔を必死で隠した。二の腕で顔を覆う姿はなかなか滑稽だろう。
いつもと違う様子の姉を目に焼き付けた由莉奈は気まずそうに目を逸らした。
「なんかドアがガタガタ言ってたから。」
二の腕の奥から聞こえてくる声には焦りと疑問と弁解が含まれていた。
愛花はすぐに口角を上げる。目をぱっちりと開く。呼吸を整える。
「いやー、ごめんごめん!ちょっとむせて。大丈夫だよ心配しなくても!あはは。」
愛花は右腕を後頭部に回す。
苦し紛れでしかない言葉はまた、由莉奈の顔を歪ませた。
「いやおねーちゃんさ、最近変だよね。なんかあった?」
眉間の皺が深くなっていく由莉奈。
返答を頭の中でまとめている愛花はさらに追い込まれる。
「この前も変だと思ってた。でも最近またいつものおねーちゃんに戻ったから安心してたのに。」
由莉奈は思ったことを整理せずに話しているようだった。
「何かあるなら言って?」
妹の親切心は愛花にとって逆効果でしかなかった。
由莉奈の優しさが愛花の心を蝕んでいく。
いつのまにか詰められた距離は愛花の心を急かしていた。
背筋が自然と伸びて、
「ううん。何もないよ。早く支度しよ!遅刻しちゃうよ!」
まだ時間に余裕はあったが、由莉奈はそれ以上詰め寄ることをしなかった。
足早に家を出てからいつもの通学路を通り、とうとう高校に到着する。由莉奈を途中でばったり会った舟木に預け、愛花は一人小走りで登校した。
半月ぶりの学校というのは時空を超えていてもいなくてもそれなりに久しぶりに感じるものだ。
愛花は少し咳払いをしてから校門の内側へと入っていった。妙に肩の力が抜けない。
このままだと右足と右腕を一緒に出してしまうかも知らないと思うほどに。
事前に準備をすればするほど本番が怖くなる。
部活動(半年で辞めた)やテスト勉強やなどで感じたことがあり、長らく体感していなかった感覚。
どうにか下駄箱まで駒を進めた愛花は背後からの不意打ちによって大ダメージを負った。
「おはよ!桃川!」
肩に触れられた衝撃の反動かのように体全体が飛び跳ねた。体の中の心臓までも。
振り向かなくてもわかる。この15日間脳内で何度も再生してきた声。もう一度聴きたいと懇願してきた声。
「おはよう!松風君!いい天気だね!」
また会えてよかった。愛花の心に最初に浮き出た気持ちだ。
必死さと歓喜をなんとか抑え、いつも通りの返答に成功した。
やけに社交辞令っぽくなってしまったがリベンジマッチとしては上々の滑り出しだろう。
波打つ鼓動をそのまま元気に昇華させることに愛花は成功した。
「あーたしかに!こういう日って思いっきり体動かしたくなる。」
その言葉と共に向けられた笑顔はときめきを忘れていた三十路にはなかなか破壊力がある。
これだけは何度されても慣れる気がしない。
それでいて今目の前にいる彼が何か大きく重たいものを抱えているともあまり思えなかった。
松風と純度100%の会話をしていると自然とこっちの表情も明るくなる。
またもや愛花はただただ幸せを感じていた。
松風と時間を共有すると心が飽和しそうになる。
愛花の表情を曇らせたのは下駄箱の扉を開けた先の光景だった。
「、、、、、、、、あ。」
四角い闇に包まれている下駄箱内。寂しく切り取られた空白は愛花を現実に戻した。
そうだった。茅野の嫌がらせは続いているのだ。
白と黒が反転し、あまりに角が取れた茅野を見ていたからすっかり忘れそうになっていた。
高校時代の茅野は愛花に嫌がらせをしている。
つい最近このことについて謝罪を受けた身としてはどう対処すればいいのかわからなかった。
謝罪されたあとにもう一度被害を被り直す経験は今後一生しないだろう。
松風の瞳には呆れて、面倒くさそうにしている愛花の姿が映っていた。
クラスが違うので下駄箱の距離は離れている。
「おはよう。松風。」
愛花にかける言葉は別の人物に遮られた。
「ん?あ、おはよ!」
松風の背後から聞こえる覇気のない声。背が小さいので見下ろす形になってしまう。
未凪は脱力しきった目で松風を見つめた。彼的には最大限愛想良くしているつもりだ。
しかし、松風は未凪越しに見える愛花に釘付けになっていた。
「松風?行かないの?」
上履きを持ったまま立ち止まる姿はかなり不自然だ。未凪は猫のように首を傾げる。
「おねーちゃん!探し物はこれ?」
松風は愛花が動き出したことに連動して歩を進めた。
「あ!ありがとう。由莉奈。」
「朝急いでて間違えて私が持っていっちゃった。」
「ったく。お前ら二人って意外に抜けてるとこあるよな。」
ポリエステル製の袋を開けるとそこには愛花の上履きが入っていた。どうやら何度か上履きを隠されてからは対策として毎日家に持ち帰っていたようだ。
たしかに自分ならそうするだろうなと愛花は思った。
ほっと一息つき、上履きを履いていると松風がこちらを見ていることに気づく。淡く、心配そうな瞳をして。
しかし、人の流れが多く松風と愛花は軽く手を振ってから別々のグループで自分達の教室へ向かった。
一階下に教室がある由莉奈と別れ、愛花は舟木と二人で階段を上がっていた
「茅野だろ?お前にしょーもないことしてんの。」
「え?まあ、うん。そうだけど。」
いきなり核心をつかれた愛花は少し動揺した。
でも、相手は舟木だ。すぐにいつもの調子に戻る。
「俺がなんとかしてやるよ。」
流し目で発したその言葉には少しの怒りが含まれていた。舟木はいつでも愛花の味方でいてくれる。
それは、本当にありがたくて感謝してもしきれない。落ち込んだ時や、辛い時に何度も助けられた。しかし、今回ばかりは舟木の力を借りるまでもなかった。
「いや、いい。大丈夫。」
「大丈夫じゃない時にも大丈夫っていうよなお前って。」
時々出る真面目なトーンの舟木に愛花は調子が狂いそうになる。なんというか、三枚目から二枚目になる瞬間のような。
「本当に大丈夫だよ。だったら本当に大丈夫な時はどう反応すればいいの?それにどーせあとちょっ、、。」
「ん?」
「いや、なんでもない。でも、本当に大丈夫だから。」
危ないところだった。この世界でこれから起こることを知っているのは愛花だけなのだ。
同級生たちの騒がしい声によって愛花の失態はかき消された。いつもうるさいと思っていたこの粗雑な騒音に今だけは感謝した。
教室に入り、席に着く。この瞬間が自分は現在高校生なのだと一番強く実感できる時だった。
本来が鳴り響き廊下でドタドタという足音が強くなる。その音はなにかに追われているのかと思うほど激しく鋭い。
先生の呆れた声が喧騒の中を泳ぎ、最後の鐘がなり終わると同時に全てが静寂へと変える。
ガラガラと響く聴き慣れた音。
担任の張間が眠そうな顔で入ってきた。
「はい。ごーれい。」
まるで誰かに操られているのではないかと思うほどにやる気の感じられない張間は挨拶をかけた。
生徒達が立ち上がっても頭を掻き、適当に礼を済ませる。
熱血の対極にいる張間はこう見えても生徒達からの信頼は厚い。この脱力感が暑苦しくなく話しやすいのだ。やる時はきっちりやるし、授業もなかなかわかりやすい。
いわゆる当たりの先生だ。
「えー。明日から体育祭です。今体調を崩したら元も子もないので熱中症に気をつけてください。以上です。今日も一日頑張ろう。」
最低限すぎる朝礼を済ませたらすぐさま張間はあくびをしながら職員室へ戻っていった。
生徒達は各々の用事に出かける。
愛花は張間の話を聞いて勝負の日が近いことを悟った。
体育祭は、茅野が松風に正式に振られる日。
松風との愛が深まる日。
「ねーねー愛花?」
よし!と愛花が気合を入れていると、隣から明るい声が飛んできた。
15日ぶりに鼓膜に触れた声に愛花は無性に嬉しくなった。
「ん?何、橋村さん。」
「私のはちまきにメッセージ書いてよ!」
そう言って橋村は屈託のない笑顔と共にマジックペンとはちまきを持っている。
「ああ、うん!もちろん。」
この学校では毎年、クラスカラーのはちまきが配られる。そこに仲のいい友達や恋人からメッセージを、書いてもらうのも伝統行事になりつつある。
「愛花のも書かせて。」
「うん!」
愛花は生返事を返したがはちまきを配られた時に自分はいなかったので今どこに自分のはちまきがあるのか見当がつかなかった。
おもむろに机の中を弄ると黄色のはちまきが出てきた。
そのはちまきのど真ん中には一つだけメッセージが書かれていた。
「本番ではライバルだけど、一緒に頑張ろう!負けないよ? 悠一」
不意打ちに思わず口元が綻んだ。
多分、はちまきが配られてから1番に書きにきてくれたんだろう。愛花は今、自分の幸福度が確実に上がっているのを感じていた。
「おーい。全身から幸せオーラ出てるぞ!?」
愛花はとても惚気たい気分だった。
しかし、それを頑張って押し殺し橋村へ視線を戻す。
「あはは。ごめん。はい、私のはちまき。」
「松風の次かぁ、なんか忍びないな。」
橋村は無邪気な笑みを浮かべながら黄色いキャンバスに黒の線を走らせた。
愛花も橋村のはちまきにメッセージを残す。
彼女のはちまきは既に半分ぐらい暗くて、彼女の人望を表しているようだと愛花は思った。
「はい!完了!」
「ありがとう!」
二人ではちまきを渡し合い、仲のメッセージを眺める。
「橋村さん!一緒に頑張ろうね!!絶対優勝! 愛花」
「愛花ー!暑さに負けず、一緒に戦おう! かなえ」
橋村のメッセージには可愛いウサギのマークが描かれていた。お互いのメッセージを眺めてまたもや愛花の口角は上がる。
大人になってから、やけに青春に思いを馳せることが多かった。もう取り戻せないあの瞬間をなんでもっと大事に生きなかったんだろうと後悔することが多かった。
愛花は今の幸せすぎる瞬間をただただ噛み締める。
思わず涙腺が潤み出すのを堪え、橋村と笑い合った。
もう後悔したくない。
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