第二章 異変①
いつも以上に体が重く感じた。
頭の中で靄が渦巻き、ドクドクと波打つ。
鼻の粘膜を突き刺すのは濁り滞っている空気。
耳を刺激する騒音がまだ聞こえていないことから早く起き過ぎたのだと脳は認識した。
まだ夢の中に居たいが、肺まで到達した粒子が体中の細胞を刺激し目を覚まさせる。
上手く力が入れられずに立てた腕が滑り落ち、地べたに思い切り落下した。
鈍い痛みを感じ軽く唸りつつ、空気を入れ替えようと立ち上がった。
空間を上手く視認することなく、手取り足取りで光の方へ向かい思い切り窓を開いた。
ガシャンという音とともにフワッと浄化された空気が部屋に侵入してくる。
定位置に置いているメガネを拾い上げ顔にセットした。メガネはいつもより少し大きく感じた。
光が眼球を、体を、部屋全体を支配し頭のノイズが晴れていく。夢へ手招く魔物はいつのまにかどこかへ消えていった。
愛花が完璧に瞼を上げたのはそこだった。
瞳孔が小さくなり少しよろめく。
新鮮な空気を思い切り体に取り込み血を巡らす。
たまには早起きもいいものだ。少し得した気分になり愛花は笑みを浮かべながら頭を窓から突き出し外を見渡す。
しかし、瞳に写した光景は予想していたものとは異なっていた。
ガタガタと音を立てて走る自動車。
電話をしながら歩くスーツのサラリーマン。
両手に小さな子供を抱えて歩く主婦。
ヘルメットとサングラスをし、四角いリュックを背負う自転車の男。
忙しくしている喧騒は愛花を置いてきぼりにしていた。頭に違和感と疑問が到着し、体は硬直してしまった。閉じていると思っていた口はいつのまにか開いている。
「、、、、、、、、、?」
固まった足をゆっくりと動かし辺りを見渡した。
180°回転した体は起こっていることを実感させ重量を増していく。愛花はそこで関節や腰、肩がミシミシと言っているのに気づいた。
重さに耐えられなくなった膝はポキリと音を上げ機能を停止した。
柔らかいベッドに着地した尻は埃を舞い上がらせる。その光景を見て愛花はとうとう自分の現状を少し理解し、頭のてっぺんから血の気が引いていった。
斜めに傾いたメガネを直し、瞬きを3回繰り返す。
「ちょ、、、ちょっと、、待ってね。」
その呟きに応えるものはいない。
部屋の中にピカピカの制服はない。
机の上にあるのは教材ではなく少年漫画。
愛花はすぐさま扉を開け階段を駆け降りた。
素早い振動が家全体に響き、音が止まったときには鏡の前で凍ったかのように固まる。
反射する自分の容姿を見て淡い期待は打ち砕かれた。疑惑は確信に変貌を遂げた。
浮腫んでいる瞼周り。整えられていない眉毛。油ぎった肌。深い谷ができている口周り。痛んだ髪の毛。
これは、現在の愛花だ。堕落し、生きることを怠っている今の愛花だ。
キラキラしていたはずの瞳は見るも無惨に輝きを失っている。
愛花はまた体を回転させ、自分の部屋に戻った。
またもや家の中にうるさい足音が響く。
今心にあるのは絶望なのか安心なのか恐怖なのか愛花はすぐには判断できない。
しかし、次に起こったことによって現実が複雑なのだと愛花は驚愕する。
ベッドの横に置かれているのはホームボタンのないスマートフォン。色鮮やかなロック画面には2022年、5月15日と映し出された。
愛花の眉間にしわがよった。
それは幸せな長い長い明晰夢から覚めたという愛花の推測が外れたからだ。
「本当に、、、タイムリープしてんの、、、?」
過去に戻った時、映画を参考に漠然と思ったことが現実として突きつけられるとやはり衝撃的である。
毛根から流れ出る汗を止めることができない。
フィクションの世界と同じことが自分に起きていると言うことが理解できても実感できていなかった。
そして、次に愛花はハッと思い立ち漫画(昔は勉強)机の引き出しに手をかけた。
埃が溜まっており少し指が滑る。
引き出しをゆっくり引くと上手く机と引き出しが噛み合っておらず途中で動きが止まってしまった。
そりゃあ10年間開けずに放置しているのだから年季が入っていて当然だ。
その中からも灰色の埃がお出迎えしてくれた。
途中まで開いた引き出しはギリギリ手が入る広さだったのでそのまま容赦なく右手を突っ込む。
指先で感じた少しざらついた質感は目的のものだと一瞬で確信できた。
さらに奥へ手を進め、その厚いものを掴み思い切り引き上げる。ところどころ手の甲が擦れて痛いが乾燥した肌が少し白くなるぐらいで済んだ。
薄汚くでコーティングされたその日記帳を軽くはたき、息を吹きかける。
年季の入った机に座り日記を目の前に置く。
椅子が小さな悲鳴を上げたが愛花は気づかなかった。
愛花は一度ゆっくり瞬きしてからその日記帳を開く。
カサカサと擦れる紙が流動的に動く。
素早く手を動かし、過去を遡る。
見覚えのあるページで手を止めた。
「4月30日。今日の1限目、英単語の確認テストがあることを忘れていた。直前で詰め込むも撃沈。どうか返ってこないでほしいな。勉強はともかく、今日も松風君と一緒に帰った。松風君は最近、映画鑑賞にハマっているらしい。また新たな一面を知れた。もっともっと知りたい。今度公開するメンインブラック3を一緒観る約束をしたよ。私は1も2も見れてないからこれからDVD借りてくる!楽しみ。」
これは、愛花が高校時代に来た1日前の内容だ。
愛花はある仮説を考えながら唾液を飲み込み次のページを開く。
「5月15日。なんでだろう?日記を書くのを15日間も忘れてしまった。それにその期間の記憶もなんだか曖昧なの。伸吾や由莉奈、橋村さんに聞いても別に普通だったいうし。なんだか私の行動を遠くから見ているような感じだったのは覚えてる。でも、松風君と仲良くなってたからいいか!あとは、新しい上履きを買ったよ。体育祭までもう少しだからランニングシューズも新調しようかな。足引っ張りたくないし。今日はね!松風君とアイスを食べたよ!美味しいかった。今日はもう眠いから寝るね。おやすみ。」
なんだか過去の自分はかなり楽観的らしい。
それが功を奏しているのかどうかは微妙なところだが。
しかし、それ以上に愛花は自分の仮説が正しかったことに少しの高揚を覚えた。
その仮説とはつまり、過去を変えれば未来が変わるということ。
過去に行っていた15日間、愛花は一度も日記を書かなかったのだ。そしてその過去は現在となった。
つまり、過去を変えれば未来も変わる。
自分の行動で未来が良い方に向かうかもしれない。
そしてさらに愛花はある期待を胸に抱いていた。
体をすぐさまスマートフォンに向かわせる。
勢いよくベッドにスマートフォンをとり検索サイトを開いた。
その一連の光景は側からみれば一人プロレスでもしているのではないかと思うぐらい激しく大袈裟なものだった。
15日ぶりのフリック入力で文字を打ち込む。
なんて感度がいいんだ。
「久実高校 白骨化した遺体」
検索ボタンをタップした。
すると、最新のニュースが多数表示される。
目に入った見出し一覧を見て一つ目の期待は打ち砕かれた。
[都内の高校で発見された白骨化した遺体 未だに正体分からず]
白骨遺体はまだある。それを阻止することはできなかった。
愛花が過去にいた時、こまめに発見された校庭の場所を見ていたのだがその時はまだ何もないようだった。
つまり、遺体が埋められたのはまだ先の話。
そして、次の目的へ急ぐ。
また机に移動し、パラパラとページをめくった。
「文化祭2日目。ごめんなさい。まだ気持ちが整理できてない。今日は沢山のことがありすぎだよ。どうすればいいの。橋村さん。無事だよね?ごめんごめんごめん。私が一緒にいれば止められたかも。お願いだから、どうか無事でいて。大好きな橋村さん。そして、後夜祭でね、松風くんと一緒に踊る約束してたの。でもね、ごめんなさい。断っちゃった。そんな気分にはなれなかった。ごめん。ごめん。」
期待は砕かれる。橋村の火傷も止められていない。
愛花は落胆の中に取り残された期待になんとか縋りつきおもむろに次のページをめくった。
「ごめんなさい。お願い戻ってきて。私が踊るのを断ったから?松風くん。あなたがいないと生きていけない。あなたがいないと何もできない。橋村さんもいないんだよ?松風くんもいなくならないでよ。なんでなんでなんで。本当にごめんなさい。」
愛花はゆっくりと日記を閉じた。
最大の目標も達成できていなかった。
握力が強くなりポキッと指の関節が鳴った。
大きなため息がこぼれる。
部屋に充満していた埃はいつのまにか開けっぱなしの窓から自由の身になっていた。
空気が入れ替えられた部屋はより一層愛花に虚しさを感じさせた。
でも、よくよく考えれば当然かもしれない。
だって、何もしていないのだから。
愛花は自分を責めた。
過去に行き愛花が行ったのは松風にうつつをぬかし、デレデレすることだけだった。
いつもそうだ。肝心な所でビビり、行動に移せない。
過去を変えることで未来が変わる確証がその時になかったというのは言い訳だ。
そんなことは考えず、とにかくもっと行動するべきだった。
自分の中に湧いて出てくる憎悪が心を蝕んでいく。
愛花は顔を洗い、スマートフォンを片手に軽い朝食を取った。
家には誰もいなくてバターで焼いた食パンを齧る音が響いている。
こっちの15日間も一応自分は活動しているようだった。LINEやメールも稼働している。
どういう原理なんだ。
神か何かの暇つぶしで時間と人をいじってるのか。
だったらなんで自分を選んだのか愛花は質問したかった。
そんな妄想という名の幻想を考えていた愛花は電話のアプリに通知が一件入っていることに気がつく。
非通知の着信履歴だ。
呼吸と瞬きをするのを忘れただ、愛花の指先は動いていた。
瞳に映った再生ボタンにゆっくりと触れる。
車中にある機械から生々しい音声が発せられた。
「はぁ、はぁ、、、はぁ。頼む、、、!松風を見つけてくれ、、、、、、。」
その声からは緊迫感と悲しみ、悔しさが滲み出ていた。そして、苦しみが全てを覆い包み、音は静寂に帰る。ブクブクとした音が聞こえた。
それが誰の声なのか、直感的にわかってしまう。
しかし、それを信じることは出来なかった。
いや、信じたくなかった。
愛花はスマートフォンを手から落とし呼吸を整える。
心臓の鼓動が速くなる。顔に熱が溜まっていく。
体内の水分濃度が着々と下がっていくのを感じた。
小刻みに震えた手で落としたスマートフォンを拾った。自分の荒い息が耳に入ってこない。
まだ揺れる親指でネットニュースのアプリを開いた。
画面中央でくるくると回る円はまるで愛花の心の準備を待っているかのようだった。
そして、続々と表示される文字。
ピクピク動く瞼とそれに包まれた目に一つの見出しが映し出される。
[都内に住むフリーターの男性 溺死]
愛花はまた床にスマートフォンを着地させてしまった。
叫びたい声は喉が乾いて出なかった。
開きっぱなしの不用心な口を怯えている手で覆う。
床から愛花を見上げているスマートフォンをまた持ち上げ操作する。
開いた電話帳には頭に描いている人の名前が載っている。
まだ、可能性はある。
思い切り受話器ボタンをタップをした。
コールが冷徹に愛花の鼓膜を揺らしている。
まだ出ない。
まだ。
ピッという音と同時にスマートフォンから緩やかな風の音が聞こえる。
出た。大丈夫だ。この心配は杞憂だ。
愛花は息を整え無理矢理声帯を揺らした。
「あの!」
愛花が次の言葉を発することはなかった。
「
鼓膜に届いた悲壮感の漂う声。
「夜留は、、、、、。」
あれだけ荒ぶっていた呼吸はもう平静を取り戻していた。
「亡くなりました。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます