第一章 蘇る青春③

その笑顔が視界の左端に入った時、愛花が覚えたのは懐かしさなんてものではない。感動だ。それと同時に涙腺が少し緩んでしまう。

その人は愛花の真隣の席に座りおはよー!と声をかけてきた。

その天真爛漫を具現化したような女子の名は、橋村はしむらかなえ。高校時代の愛花の親友だ。

高校一年生の時から同じクラスで当時、クラスに馴染めなかった愛花には率先して話しかけて来てくれた恩人だ。さらに、愛花が松風への告白を躊躇っている時に後押しをしてくれたのも橋村だ。それ以降愛花の橋村への感謝の念はさらに深くなっていた。

しかし、愛花が橋村と会って泣きそうになっているのには他にも理由がある。

それは忘れもしない文化祭の時。

愛花の学校は10月に文化祭が2日間ある。

その2日目。愛花にとって人生で最も濃い日だったと言っていいだろう。

その日は愛花が松風と最後に会った日、松風が失踪した日だ。そしてもう一つ。橋村かなえが大火傷を負い緊急入院した日でもある。

その日、文化祭の昼休憩時このクラスの教室でボヤ騒ぎが起きた。

愛花のクラスは文化祭で演劇をすることになっていた。火元は小道具の松明。

でも、それになぜ火がついていたのかはわからない。事故だったのか事件だったのかも。

しかし、その時偶然教室にいた橋村が大火傷を負いすぐさま搬送された。

愛花はとにかく彼女の無事を祈った。

でも、彼女がこの学校に戻ってくることはなかった。

それは亡くなったということではない。入院してから学業への復帰が困難になり高校を退学したのだ。

そして、連絡もつかなくなっていた。

愛花は彼女に感謝の言葉も何も言えていない。

恩返しもできていない。

愛花は同窓会で彼女の姿も探していた。

松風同様、見つからなかったのだが。

もう一つの愛花が解決したい事件というのはこれだ。

橋村の火傷も止めたい。恩人を助けたい。

気づけば愛花はその屈託のない笑顔に抱きついていた。橋村の体は柔らかく温かい。

「おー!どうした?ん?」

愛花は涙腺の決壊を止めることに精一杯ですぐに言葉を返せなかった。

体の震えが徐々に収まってきた。橋村が背中をさすってくれたのがわかる。

「お、は、、よう!」

絞り出したその声に橋村はまた優しい笑みを浮かべる。

「うん。おはよう。」

橋村はさらに愛花の体を包み込む。

周りの視線が少し集まっているが橋村は気にしていなかった。この包容力に愛花は何度も救われている。

「もー、鼻水垂れてるよ?可愛い顔が台無しじゃん。そんなんじゃ松風君に振られちゃうよ?」

「ふっ!ごめ、、ん。ありがと。」

橋村は落ち込んでいる愛花を励まして、さらに半泣きの顔を見えないようしてくれた。

舟木は同級生との会話中にそんな2人を横目で見ていた。


中々騒がしくなった教室を本鈴のチャイムが包んだ。その音を合図に皆は訓練された軍隊のように定位置に着く。教室中にガラガラと音が響き渡る。

そして、扉から入ってきたのはゆるふわパーマのかかった担任の先生。

長身で細身、さらに脱力しきった目が彼の印象をミステリアスに仕上げている。

張間尚志はりまなおし。愛花が過去に来て最初に聞いた声の主。

音が止んだところで少しズレた眼鏡を直して張間はいつもの決まり文句を呟く。

「はい。じゃあ起立。」

愛花の体は無意識に立ち上がっていた。

どれだけ時が経っても体にこの習慣は刻み込まれている。

「おはようございます。」

静まった教室に聞こえるその声はつかみどころがなく少しセクシーな印象を受ける。

皆がまた椅子に腰掛け出した時、張間はだるそうに出席簿を水性ペンに持ち替えホワイトボードに文字を書き始めた。

白い表面に滑る黒ペンはある文字を書き上げた。

体育祭。

「はい。ということで今年も開催するそうです。今年のテーマは希望。ありきたりですね。まあ今日から徐々に準備を始めていくのでよろしく。」

明らかに乗り気じゃなさそうな張間は直ぐに教師専用の回る椅子に勢いよく座りホームルームを終わらせた。

側から見て張間が運動が得意ではないことぐらいわかる。明らかに体育会系の風貌をなしていない。


各々が別の教室やロッカーなどに赴き、フロア全体がまた騒がしくなった。

張間は活発な生徒たちを眺めながら大あくびをする。そして口がゆっくり閉じられたところで舟木をこっちに来いと目線を送った。

舟木もすぐに気づきいつもの笑顔で張間の教卓へ向かった。

言葉を交わさなくても彼らは分かり合っている。

それはなぜなのか。

張間は舟木の父親、舟木製菓の社長の親友なのだ。

舟木の張間への扱いは実の父というより実の兄のようだが。

愛花は2人の様子をぼーっと眺めていた。

「なになにどうした?尚ちゃん?」

「学校では先生つけろ馬鹿。」

「ごめんって。」

両手を合わし頬につける舟木。

無意識にあざといポーズをするからこの男は恐ろしい。

張間はひょうきんな舟木とは対照的に少し深刻な表情を浮かべる。

「そのー、大丈夫か?会社のこと。」

「なんだよ。親父に直接聞けよ。」

うるさい教室に反比例するように2人の声は小さくなっていく。

「直接聞けるわけないだろうが。」

「40年来の親友にまだそんな遠慮してんのー?」

舟木は人差し指で張間の胸をつつく。

客観的にみれば彼らの距離感は教師と生徒にはまるで見えない。

「だから、経営の方は大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だよ。そんな尚ちゃんが心配しなくても。」

張間は舟木のサラサラ髪に手をポンと乗せた。

「そーか。ならよかった。」

「うん。あ、わりい。もう授業始まるから!って尚ちゃんの日本史じゃん。」

「早くロッカー行ってこい。」

「うん!」

教室を急いで飛び出した舟木は自分のロッカーへ急ぐ。

日本史の教材を抱えた舟木はそのまま愛花の右斜め後ろの席に着く。

舟木が教材を開きこの前教わったところを確認していると、机がポンポンと叩かれる。

「伸吾、張間先生と何話してたの?」

舟木の眉毛が少しピクっと上がった。

「ん?うちの会社のことだよ。例の。」

「あー。」

愛花は確かそんなこともあったなと思った。

舟木製菓はこの時期の少し前。つまり、愛花たちが高校一年生の時に経営不振に陥ったのだ。

原因としては舟木製菓の粉飾疑惑。

それはある日突然、大手週刊誌が証拠付きで堂々と舟木製菓の粉飾を報道したことで起こった。

世界で戦える会社の大きな疑惑に日本中から激震が走り、それにより複数の取引先が撤退、株価が急落してしまったのだ。当然、経営状況は悪化。

舟木はそんな時にこの高校は入学した。

当時、悪い意味で話題の会社の跡取り息子として、舟木の風当たりは強かった。

まあ舟木は持ち前の人柄の良さで第一印象をものともせずに人気者までスピード昇格したのだけれど。そして、夏頃から舟木製菓の経営状況は徐々に回復し始める。

それは舟木の父は会見で粉飾はしていないという証拠を提示し、その情報はデマだったとわかったからだ。

それでも、完全に傷は癒えず舟木製菓は複数人のリストラでコストを削減した。

そして、完全に回復したのがここ最近の話。

張間先生も親友のピンチで気を遣ってくれたのだろう。

「じゃあ大丈夫なの?」

「うん。まあ、ちょっと親父の白髪が増えたぐらいで済んだな!あはは!」

愛花が何か言葉を投げかけようと模索していると1時限目のチャイムがなった。


何度も波打って襲ってくる睡魔を耐え抜いた愛花は現在お昼ご飯を食べている。

陽気な日差しが照りつけて心地良い風が頬を撫でる。ここは屋上テラス。

黄緑色に塗装された木製ベンチに2人で座る。隣いるのは松風だ。

松風とはクラスが違い、教室もかなり遠い位置にある。だから会えるのはお昼休憩か放課後ぐらいしかないのだ。

愛花は膝の上に弁当箱を乗せ、松風を見つめる。

松風は購買で買ってきたパンの袋を破っていた。

香ばしい小麦の匂いが2人の鼻を通り抜ける。

「今日もパンなの?」

「ああうん。うちの人に迷惑かけたくなくて。」

やけに他人行儀な言い方を愛花は指摘できなかった。

松風とは毎日お昼ご飯を2人で食べていたことを愛花は覚えている。そして、いつも購買で買ったものだったことも。

だから10年ぶりの松風との昼食だがこれまでも毎回パンを食べているはずと愛花は推測して先ほどの質問をしたのだ。

なぜあの時は少しも、このことに気づかなかったのだろう。

未凪が言っていた何か抱えていることにもつながるかもしれない。

「私のお弁当いる?」

「いや、いいよ。悪い。」

松風はぎこちなく笑う。

「いや、栄養偏っちゃうからダメ。」

愛花は自分の弁当箱から甘い卵焼きを箸でもちあげ松風の口の前に運ぶ。

松風は少し戸惑った様子だがブハッと吹き出し、いつもの爽やか笑顔を浮かべる。

「ありがと!」

卵焼きを迎えた松風の口はとても幸せそうで、それを見ているだけで愛花の口も自然と緩む。

ここから、少しずつ。

松風の抱えているものを半分持たせてほしい。

自分に、頼ってほしい。

愛花は意を決して口を開く。

「松風君!」

「ん?」

まだ口が膨らんでいる松風はきょとんとする。

それはいつもとはまた違う表情だった。

小動物みたいで可愛いと愛花は心の中で思った。

「その、、、。」

「ん?」

松風はさらに首を傾げる。

口の中の卵焼きは飲み込んだようだ。

「作ってほしいものがあったら言ってね!」

愛花の言葉は卵焼きと同じタイミングで飲み込まれてしまった。

しかし、当の松風は目をキラキラさせて口角がぎゅっと上がる。

「マジで!考えとく!嬉しい!」

屋上から見える木々はゆらゆらと揺らめいている。

遠くに見える高い高いビル、鼓膜を揺らす鳥のさえずり、伸び出した影、真っ青なキャンバスにところどころ白が塗られている空。

愛花はここにいると世界が2人だけのもののように感じる。

松風の笑顔一つで愛花の心は満たされてしまう。

この笑顔の裏にある事情を何も知ることなく。







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