第一章 蘇る青春①

その低い声に応えるように共に愛花は重たい体を起こした。頬にひんやりとした感触が残りフローリングで寝てしまったのだと理解する。

昨日食べたものがまだ胃に残っている感触がある。

でも、感触だけだ。睡魔が身をひき始めると体も妙に軽かった。

しょぼくれた瞼を少し開くと明るい光が眼球に突き刺さる。昼まで寝てしまったのだろうか。

愛花はそこでようやく周りから笑い声が聞こえることに気づいた。由莉奈が一階でバラエティ番組でも見てるのかな。音量を下げてもらおう。2階まで聞こえるのは流石にうるさすぎだ。

ふと、後頭部に衝撃が走る。

「呑気なやつだな。テストどうなっても知らねーぞ。」

寝ぼけた体を無理やり叩き起こされた愛花は不機嫌のまま後ろを振り向く。誰だ。

一気に差し込んでくる光が明けるとそこにいたのはふんわりパーマに眼鏡をかけた知的な男性。

彼は手に何か本を持っている。愛花はこれで自分の頭は叩かれたんだなと理解すると同時にとてつもない量の情報と混乱が脳に入り込んでくる。

さらには笑い声も。

「え?え?」

辺りを見渡すとそこに広がっていたのは懐かしく羨ましい風景。

そして愛花はそれがどこかをゆっくりと認識した。

紛れもなく教室だ。

左側からの極端な日光が教室を包み込み、この空間全てが煌めきに満ちている。等間隔に置かれた木製の机と椅子。そこに座るのは若くお肌がピチピチした学生たち。大人たちの汚れを知らない真っ直ぐでキラキラした子供たち。そして彼らの目線は全て愛花に向けられている。

鼓膜を揺らす笑い声が収まると知的な男性は前方にどっしりと構える大きなホワイトボードに歩き始める。持っている本に書かれていた「古事記」の文字を愛花は視認した。

「じゃあ続けるぞ。」

彼の合図と共に若人は古事記の本文を声に出して読み出した。教室が愛花を除いて一体化する。

久々に聴いた馴染みのない言葉たちは愛花にとってお経にしか聞こえない。

目の前のホワイトボードにはまだ何も書かれていない。まだ一色しかないその板はまるで彼らの心を表しているかのようだった。これから大人になるにつれ赤や青、黄や緑、時々黒いものも加わるだろう。

それらが全て混ざりあった時の色彩は人それぞれ違う。綺麗な虹色に落ち着くかもしれないし全てが混ざり合ってドス黒くなるかもしれない。

彼らのお経を耳に入れながら愛花はそんなことを考える。懐かしいな。不思議なことに混乱していたのは目が覚めた数秒。愛花はこの前まで憧れていた、戻りたいと思っていた世界を今、覗けていることに幸福を感じていた。

しかし、外から来る隙間風で髪が揺れた時、愛花は異変に気づく。今、自分が身を置いているからは感触を感じる。

手を動かすと眼下にある書類はパラパラと反応する。足を動かすと足の下にある固いものに靴が擦れる。体を動かすと力がうまく入らずそこから落ちてしまった。尻に痛みを感じる。手のひらに冷たさを感じる。

たしかにそこに愛花は存在していたのだ。覗いているわけではない。

今、愛花は床に尻餅をついている。それを彼らは懐疑的な目で見下ろす。

「おい桃川、大丈夫か?寝ぼけてんのか?」

またあの眼鏡の男の声が聞こえる。

床に直についた手のひらなんて気にせず愛花は頬を触った。体を触った。そこで自分が真新しい服を着ていることが分かる。普段の自分なら絶対に着ないデザインだ。真新しいはずなのに感じるのは懐かしさ。

それは、制服だった。

忘れもしない、白いワイシャツにパステル柄のセーター、かわいいリボンとチェックのスカート。

「え?は?ん?ど、どーいう?」

すると、後方右上から聞き慣れた声が聞こえる。

「おい。大丈夫か?」

その高い音の中から明るさが溢れ出ている声は明らかに舟木伸吾ふなきしんごのものだった。

完全アウェイなその空間の中に存在した実家のような安心感にすぐさますがる。

「伸吾!こ、これって、、、、え?」

机に座って見下ろしていた舟木の姿は明らかに学生時代のものだった。髪の毛はところどころ遊ばれていてワックスの量もいつもより多く感じられた。

そして何よりワイシャツに薄いセーターを着合わせている。これは学生時代の舟木の普段着のようなものだ。とても見慣れていた。

固まった愛花を見て、舟木の表情はさらに心配が増していく。

「マジで大丈夫か?保健室行く?」

席を立って手を差し伸べてきた舟木に愛花は少し後ずさる。

「ちょ、ちょっと待って。ごめん、整理させて!」

勢いよく立ち上がった愛花は本能的に教室後方のドアへ走り、扉を力一杯開けると教室を飛び出した。

どこに向かうか明確な目標はないがとにかく走る。

頭の中はようやく靄が完全に晴れて今の現実を処理しようとしていた。

ハテナで埋まる脳をなんとか働かせる。

爽やかな風が鼻を通り抜けていく。

目に入る景色が古い記憶と合致していく。

この空間で自分だけが浮いているように思えた。

時折視界に入るものは全て自分がここにふさわしくない現実を突きつける。

そして突き当たりに遭遇したので愛花は曲がり角を曲がった。

そこで愛花の足場は無くなっていた。視界が急激に下降していきフワッとしたスリルを体が感じ取っている。やはりこれは現実じゃない。夢だ。

鮮明に蘇る思い出と共に愛花の視界は暗くなっていく。体に強い衝撃を覚えたのだ。

この意識が途絶えれば、この夢は醒める。

突如足場が消えるマリオのようなパラレルワールドを愛花はクリアすることなくゲームオーバーとなった。

奈落の底に落下して現実に戻ることに少しの寂しさを感じながら。

現実を受け止めることなく。

愛花がクリアできなかったステージの名は階段というものだった。


目が覚めると視界に入ってきたのは白い天井。

背中で感じたのはふかふかのベッド。

間違いなく自分の部屋だ。愛花はやはり自分の部屋は落ち着くなと思い仲間は体を起こす。

だが、いつもの埃臭い匂いは感じない。周りの空間もひらけてみえてとてもスッキリしている。

誰か掃除してくれたのかな。

いつもの汚部屋とは違う空気に共に気持ちよくあくびをした。体が硬直していたので思い切り全身の筋肉を伸ばす。

それは当然だ。ここはいつも汚部屋ではないのだから。

大きなあくびを終え冷静になって周りを見渡すとあまりにも見た目が違いすぎる。

すると、足元から重たいものを感じる。

おもむろに目線を動かすとそこに見えたのは見覚えのある人の後頭部。

愛花が被っている毛布の上で突っ伏している舟木伸吾は背中がゆっくり上下していることからすやすやと寝ていることが確認できる。

舟木の頭に手を伸ばし、愛花は彼を起こそうとした。

綺麗な髪の毛に触れる瞬間、この空間の扉が開く。

大きな音に呼応してそちらに目線を向ける。


素早く開いた扉の奥に立っている人に、愛花は開いた口が塞がらなかった。彼から目を離せなかった。

トレードマークのぱっちり瞼。綺麗に通った鼻筋。

少し目にかかるサラサラの黒髪。見る人全てを魅了する唇。背丈もサラッと長くワイシャツにネクタイというシンプルな着こなしでもとても上品でいてお洒落に見える。

間違いない。松風悠一まつかぜゆういちだ。愛花が探していた、ずっと気になっていた、求めていた松風だ。

「大丈夫!?階段から転げ落ちたって聞いたけど!怪我ない?」

松風の整った顔には心配が現れていた。

愛花は声も出せず彼に釘付けになっている。

こちらの心の準備ができていなくても彼は近づいてくる。どんどん無遠慮に間合いを詰めていく彼に愛花の心は吸い寄せられていく。

松風との距離はあとどれぐらいだろう。

5メートル、4メートル、3メートル、2メートル。

そんな二人の距離を照りつける陽が遮った。

松風の前に割り込んできたのは伸吾だった。

松風の扉の音で目を覚ましたらしい。

「お、起きたか!?お前何やってんだよ!心配したんだぞ!」

舟木は愛花の頬を両手で包み込むように触る。

そしてその手はおでこに移る。

「熱とかはないみたいだな。痛いところは?」

愛花はそこでようやく声帯を震わした。

「いや、うん。大丈夫だよ。伸吾。それより。」

「うん?」

愛花は複雑な表情をして立ち尽くしている松風に目を向ける。

舟木は愛花のおでこに手をつけたまま愛花の目線を追った。

松風と舟木の視線がバッチリあった。

舟木の顔には驚きと敵意、そして申し訳なさが混在していた。

固まった空気をほぐしたのは松風だ。

「ふ、舟木くん。いたんだね。ありがとう。桃川の様子見てくれて。」

松風の黒目は舟木の手に向かう。

舟木はそれに気づき急いで手を引っ込めた。

「す、すまん。悪気はない。」

「ああ、うん。大丈夫。」

愛花は二人の会話を聞くことしかできない。

とにかく色々なことが気になりすぎる。

舟木はハッと立ち上がり、息を一吸いする。

その後、見慣れた笑顔に戻り人差し指と中指を愛花に向ける。

「じゃ!愛花元気そうだな!邪魔者は退散しまーす!」

大袈裟に助走をつける動作をしてその場を舟木は離れた。それを目で追った愛花はようやくここが保健室だと気づいた。

愛花はありがとうを言いそびれたなと思ったが目の前にいる男子に目を戻す。

「も、桃川もう大丈夫?」

松風は屈んでベッドの上にいる愛花に目線を合わせ、両手を掴んだ。

愛花の鼓動は急速に波打つ。体全体が暑くなるのを感じる。松風から思わず目を逸らす。

「だ、大丈夫。」

愛花のの返答を聞いた松風は肩を撫で下ろし安堵の表情を浮かべる。

そして両手を離し、その場に座り込む。

愛花はもう少し彼に触れたいと思っていた。

「よかったー。でも階段から落ちたって聞いた時は本気で心配したよ。何があったの?」

「え?私、階段から落ちたの?」

何があったのか。いや、現在進行形で何が起きているのか聞きたいのは愛花の方だった。

そして愛花は10年ぶりに彼に名前を呼ぶ。

少し胸がキュンと鳴った。

「松風くん。」

松風は眉毛を少し上げ、何?と聞き返す。

「今って、何年の何日?」

予想外すぎる質問に松風の顔からはまた心配が浮き出る。 

「え?大丈夫?やっぱ詳しい検査とかした方が」

愛花は両手を左右に振り松風の言葉を遮る。

愛花は今、彼との会話ができていることにとても歓喜したいところだがそれどころではないのでその衝動は心の奥にしまった。

「だ、大丈夫だよ!いいから、一回教えて?」

少し首を傾げた愛花に松風は戸惑いながら質問に答える。

「今は、2012年の5月1日だよ?」

あまりに信じられない事態に愛花は再び言葉を失う。いや、少しは信じてしまっている自分もいる。

愛花は何度かタイムリープもののアニメや映画を見たことがある。まさか現実に起こるとは思わなかったが。

愛花は今、10年前の高校時代にタイムリープしているのだ。そして、今の日にち。これは松風と付き合い始めて1週間が経ったというところだ。

少しずつ状況を理解し始めても現実味のない現実に体は混乱している。

まだ夢の中を彷徨っているのかとも思った。

でも、今は目の前にいる松風のことだけを考えていたかった。

「あ、ありがとう松風君。」

「本当に大丈夫?」

「うん。思い出したよ。今は10年ま、、、2012年の5月1日だよね!」

どうすれば未来に戻れるのだろうか。

でも、愛花の脳内は別の案を考えてしまっていた。

何もかも失敗した現在と何もかも充実している過去。どちらを取るべきだろうか?ここからやり直すことも可能なのでは?今を現在としてこれまでいた世界を別の未来にする。それでもいいのかもしれない。過去を変えることで先ほどまでいた現在が変わるかはわからないが、このままこの世界にいたなら、このまま後悔を変えられたならより良い未来を自分は生きることができる。

もしも、夢だとしたら覚めない方がいいのかも。

企みを思いついた愛花の頭に未凪の言っていたことがよぎる。


「俺は、気づいていた。松風が何かを抱えていることに。でも、何もしてやれなかった。松風からもらったものは沢山あるのに、俺は何も返してられなかった。」


泣き出した彼の姿は後悔に塗れていた。

過去を変えられないことに憔悴していた。

でも。

未凪の言っていた松風の抱えていることも今なら突き止められる。それを突き止めて松風の失踪を止めることもできるのではないか。

さらに、愛花はまた別のことが頭によぎる。


「今日午前11時ごろ。私立久実高校の校庭で白骨化した遺体が発見されました。詳しい情報はまだ入ってきていません。」


もしかしたら今はまだ白骨化していない遺体が埋められているかもしれない。

もしくは近いうちに埋められるかもしれない。

今なら、全てを解決できる。今なら後悔を変えられる。

失敗した過去を成功に塗り替える。

幾つもの反省を糧にもう一度人生をリセットする。

皆が幸せで明るく笑っている未来を作る。

愛花の心には強い闘志がみなぎっていた。

松風も未凪もそして自分も、全員の幸福を掴む。

そしてそのためには、松風の失踪を止めるのが絶対条件だ。

松風の失踪を止めよう。

それに、愛花にはもう一つ解決したい事件がある。

愛花に強い目標ができた瞬間だった。


その後、なんの異常もなかった愛花は保健室の先生に許可をもらい、松風に見惚れながら家に帰った。

その際に松風に何か相談したいことない?と聞いたのだが、覇気のない生返事しか返ってこなかった。





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