きみに傷がつくくらいなら 2
「大丈夫じゃない。私なんて、最低だよ。あんな、みっともないことして……」
月子は両手で顔をおおう。小刻みに震えながら嗚咽を漏らしていた。
女優だからこそ、我慢して、隠し続けて、心の奥底へとため込んでいった。女優だからこそ、弱い自分を見せるのはプライドが許せなかった。
苦しみに満たされた心は、少しつつけば破裂する。隠し続けてきたぶんだけ、おおっぴらにしなければ気が済まないのだ。
「腕、痛かったでしょ?」
純の視線は、月子の左腕に向かう。服は長袖で、傷は見えない。
「ごめんね、止められなくて」
包み込むような純の声に、月子は手を離し、首を振る。涙にぬれた顔で、静かに声を出した。
「……違う。これは、私が決めたことだから。たとえ私が死んでも、私が嫌いなやつを引きずり降ろせるなら、それでよかったの」
月子を見すえる純の瞳は、悲哀を帯びる。何も返せず、顔を伏せた。
「死ぬのは、怖くない。みじめなまま生き続けるほうが、嫌なの。私は女優よ? 歌手なの。芸能人なの。凡人たちとは、違う」
ほの暗い闇が、月子から
「純ちゃん、私に言ったでしょ。仕事に逃げて良いって。でもだめだった」
純はただ、黙って聞いていた。ただただ、月子のすべてを受け入れてあげたかった。
「平山が、私に学校行ったほうがいいって。わたしのこと、学校にいけないかわいそうなやつだって思われたの。……わたしはかわいそうなんかじゃないのに!」
最後の一言が、バスの中に響き渡る。純は静かに返した。
「うん。そうだね。月子ちゃんは普通の人とは違うからね」
月子は嫌みだととらえたのか、涙に潤んだ目で純をにらむ。しかし純が邪気もなくほほ笑んだのを見て、顔をそらした。
「学生時代を何不自由なく過ごしてきたような平山に、同情されるなんて嫌。そんなやつに哀れみの目で見られるなんて、死んだほうがマシ」
月子には、高いプライドがある。苦しくても、傷ついても、むやみやたらと他人を頼ったりしない。
そのせいで損をすると、わかっていても。
「わたしに仕事がなくなったら、わたしはどうすればいいの? 仕事があるから耐えてたの。仕事で評価されてたから頑張ってたの。それなのに……それがなくなっちゃったら私は……ただの、ただのみじめな……」
月子はそれ以上続けまいと、下唇を噛む。
「月子ちゃん、そんなことしたら口が切れちゃうよ」
純の言うことを、聞いてはくれなかった。
頑固で、我が強く、名誉に飢えている。そんな彼女だからこそ芸能人として名を広め、一人で抱え、追いこまれるのだ。
純は、そんな月子を見殺しにするつもりはない。
「月子ちゃんの気持ちは、よくわかるよ。悔しくて、ムカついたのはよくわかる」
こぶしを強く握り、先ほどよりも真剣な声で続ける。
「でも、もう、こういうこと、しないで」
腕を切り、平山を陥れ、純や千晶に暴言を吐く。この姿に、衝動的で手に負えないやつだと誰もが思うはずだ。
しかし、純から見た月子は、かすかに理性が残っていた。自分がどう行動すれば周りがどう動くか、わかっていた。
だから厄介なのだ。月子は平山をクビにするためなら――周囲に復讐するためなら――大きな権力を動かすためなら、平気で自分の体を傷つけることができるのだから。
「次にまた同じようなことが起きたら、本当に死んじゃうかもしれないよ。そんなの、俺は嫌だよ」
純の言葉に返ってきたのは、涙混じりの冷静な声だ。
「腕を切っただけじゃ死なないし、実際死んでない。死んだとしても、それでいいの」
「よくないよ。月子ちゃんを傷つけたもののために、月子ちゃんが犠牲になる必要なんてない。なんで、月子ちゃんが消えていなくならなきゃいけないの?」
月子をまっすぐ見つめる純の声は、痛いくらいに甘く、優しかった。
「俺は、月子ちゃんのためならサンドバッグになるのも愚痴のゴミ箱になるのも平気。話が飛ぼうと、支離滅裂だろうときくよ。月子ちゃんの心が安定するなら、どんなことでもする」
月子は顔をゆがませる。
「……やめて。私は別に、純ちゃんにそんなこと求めてない」
「でも、友達だから。月子ちゃんが元気になれるなら、なんだろうと受け入れるよ」
月子は返事をせず、純を見すえる。涙にぬれた、大きい目だ。
純はいつものように、穏やかにほほ笑む。
「死んでもいいと思うくらいなら、俺に八つ当たりしていいよ。俺は何をされても月子ちゃんを嫌いにならないし、絶対に否定しない」
「……やめてってば。なんでそんなこと言うの?」
月子の口角が、自嘲気味に上がる。誰にも見せたことのない、弱い表情だ。
「純ちゃんだってほんとうは思ってるんでしょ、私のこと、めんどくさい女だって」
純が首を振っても、月子は続ける。
「そうやって、自己犠牲心むき出しにされても嬉しくない。純ちゃんの優しさなんていらない。たとえみんなが敵になるくらいなら、自分で……」
口調は冷静だったが、声が震えていた。
月子は人を頼ることに慣れていないし、頼ったら負けだと思っている。プライドが高いのは月子の魅力だが、このままではまた同じことを繰り返すだけだ。
「俺は月子ちゃんに、この世界で、幸せに生きてほしいと思ってる。そのために俺がお手伝いするのも苦じゃないんだ」
純の言葉はいつも以上に力強かった。月子の体にちゃんと入り込むよう、さらに語気を強める。
「前にも言ったよね? 俺は、どんなことがあっても、月子ちゃんの味方で友達だよって。たとえ月子ちゃんが俺のことを嫌いになったとしても、俺は嫌いにならない。月子ちゃんが消えていなくなるほうが嫌だよ」
月子の頬に一筋、涙が零れ落ちた。
「大丈夫だよ、月子ちゃん。俺は何度でも月子ちゃんを守るし、いつだって助けてあげる。月子ちゃんが、俺のこと、いつも助けてくれたみたいにね」
「純ちゃん。……馬鹿じゃないの?」
もう、強がることも、我慢することもない。感情のままに、泣いた。
「純ちゃんにそんなこと、できるわけ、ないじゃん……!」
声を上げようと、鼻水が出ようと、目を腫らそうと、純はちゃんと隣にいた。どんなにみっともない泣き方をしても、純は優しく笑ったままだった。
†
純はロケバスを出る。
「あ」
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