第33話
こちらの世界の住民の
とは言え……いくら死ぬことがないとは言っても、ここは片側が絶賛炎上中の密室です。現世ならば刻一刻と酸素が消費されていくのでしょう。そしてそれは、自身の死へのカウントダウンとなるのです。
「そのナイフを使って……自殺したんでしょうか?」
乃済さんからは反応がありません。すると、彼女はコムさんの方を見ました。きっと……コムさんの答えを要求しているのでしょう。
「……わかりません」
コムさんも何らかの着想を得ることが出来なかったみたいです。彼は無念そうに……そう発しました。
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コムさんの降参を耳にした乃済さんは、これまでの無表情から打って変わり、美しい微笑みを浮かべました。そして、私達に語り始めます。
「このナイフで……私が自殺をする。それも一つの結末としては正解なのかもしれません。自分の死は自分で決める。恵愛の殺意に対して、せめてもの対抗心でしょうね。ですが……私、そこまで諦めの良い人間ではないんです。先程の壁の文字、【水都の忌日】ってありましたよね。だから、私……思ったんですよ。忌日を今日にしてやるのは癪だから生き延びてやろうって」
気づくと、美しい微笑みは不敵な笑みへと変化していました。
「ですから……私は、このナイフを自分に用いるつもりはありません。どうせなら恵愛を突き刺してやりたいんですけど、その前に刺すべきものがあるんです」
言い終わると……乃済さんはナイフ片手にトレーラーハウスの壁面へ向かいました。そして、その場にかがみ込むと……トレーラーハウス下部に取り付けられていたタイヤへとナイフを突き刺したのです。タイヤの表面のゴムは硬く、ナイフはなかなか刺し込まれていきません。それを力いっぱい捻り込む乃済さん。少しの奮闘の後、タイヤから破裂音と空気の抜ける音が聞こえてきました。
それから、乃済さんは残されたタイヤの一つ一つへと足を運ぶと……ナイフを突き刺し、捻りを加えパンクさせていくのです。彼女は息を切らせ、額には玉のような汗が浮かんでいます。その姿からは彼女の文系女子的な雰囲気は思い出せません。
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数個のタイヤから空気が抜けていった時点で乃済さんの行為の意図は把握できました。その意図とは、トレーラーハウスの車高を下げることだったんです。それは、ほんの数センチ程度。でも……それで十分でした。トレーラーハウスの天井部分とコンクリートハウスの天井部分は高さがピッタリと揃っていたのですが、パンクでトレーラーハウスの背丈が下がることにより、ズレが生じたのです。そして、そこからは……新鮮な外気が供給されてくるのでした。
「これぞ……恵愛に対して一矢報いた、私なりの
まだ息の荒いままですが、乃済さんはそう言うと笑顔を見せました。満面の笑みです。
乙巳の変と言うのは大化の改新の前段階の出来事です。蘇我氏の専制に反発した中大兄皇子と中臣鎌足が首謀し、蘇我入鹿を宮中で殺害した事件ですね。更には入鹿の父の蝦夷も誅されました。おそらく乃済さんは乙巳と一矢をかけただけではなく、恵愛さんの殺意・殺害計画への反発への意味も込めていたのかもしれませんね。
ですが……まだ、これで終わりではありません。続きがありました。これに関しては相手の方が一枚上手だったようです。乃済さんの放った【一矢】に対応した【二の矢】が……こちらに向けて放たれてくるのでした。
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車高が下がった事により、天井にはトレーラーハウスの天井と同じサイズの穴が開いています。わずかですが……外も見えていますね。残念ながら夜になっていたようでして、陽の光は拝めませんでした。
しかし、トレーラーハウスの車高の低下はたったの数センチ。その程度の隙間では、そこを通って外へと脱出することは不可能でしょう。
上方の穴から大量に水が流れ込んできました。その水は勢いよくトレーラーハウスの天井に当たると、二つの密室へと飛び散っていくのです。
のでした。
急いでトレーラーハウスに逃げ込んだ
そうこうしている間にも、流れ込んでくる水は水位を上げていきます。そして時の経過と共に……その深みをを増していきました。
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気づけば、決断の時が来たようです。遂には
しかし、いくら考えようとも妙案は浮かんできません。
三人寄れば文殊の知恵とも言いますし、アイデアが浮かぶとも言います。しかし三人揃って浮かんでいたにも関わらず……誰からも妙案は出てきませんでした。そして、天井まで残り30センチ程へと迫った時……突如、水の流入が止まりました。
「水……止まったんでしょうか?」
「止まったね」
コムさんから反応が帰ってきました。その声も反射して聞こえてきます。
「皆さん、こっちへ来てみてください。面白いものが見えますよ」
それに続いて、乃済さんの声が響いて聞こえました。彼女は外界との唯一の接点、先程まで水が流入してきた隙間へと泳いでいきます。達者な平泳ぎでした。それに
急に、
「うわぁあぁぁっ!」
その瞳は血に染まったかのように赤黒く……瞳孔の奥からは深い憎悪の念が伝わってきました。そして、それは
その時……
お二人の助力によって、水面へと顔を出した
「鉄板か何かで塞がれたんでしょうね。つまり、恵愛にとって……この展開も計算内だったんですよ。お分かりでしょうが、先程の見るもおぞましい瞳は恵愛のものです。最後に私の滑稽な姿を見ようとしたんでしょうね。皆さんには異なって感じられたかもしれませんが……私には嘲笑の瞳に感じられました」
同じ物を見ていても、捉え方は人それぞれなのでしょう。それは乃済さんと恵愛さんの関連性が生み出したものです。だから
「もはや、私には……これ以上の打開策は見つけられませんでした。そこからの記憶はひどく曖昧です。なにせ自分が低体温症で死んだのか、溺死だったのかもわからないんですから」
そう言うと……乃済さんは仰向けのまま水底へと沈んでいきました。
「かくして水都は【水に沈んだ都】になりました。それは……かつては生きていたが、今はもう終わった存在。そう……他の人達の記憶から忘れ去られてしまった存在なんです」
水中で発したはずの言葉なのに、それは何故だか鮮明に聞こえました。
「だから、私は……こちらの世界で記憶に残るべく、こうして皆様に物語るのです。おしまい、おしまい」と。
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