第6話



「儂の若かりし時、それはもう不細工な男でありましてな……まったくもってモテる事のない人生を送って来ました」


 人間失格を少しばかり引用して、喜屋武さんは語り出します。


「ああ、ちなみに……妻は若いですぞ。容姿端麗・羞月閉花・眉目秀麗・才色兼備。婚約当時は……まだ20代後半でありましたな」


 当時の事を思い返しているのでしょうね。遠くに向けられている視線は、それを思わせます。ですが、残念なことに……その表情はデレデレと弛緩しきっていて……過去を回想する老人と言うには、あまりにも締まりのないワンカットなのでした。


「それで……結婚された後にお亡くなりになられたのですか?」


 コムさんが、老後の青春の回想に浸る喜屋武さんに話しかけました。誰かが口火を切らないと老人は回想をやめない。そんな雰囲気だったんです。


「亡くなったのは確かだが……実際に命を落としたのは結婚して十年程してから。現世換算するのなら、2022年を迎えるより少し前の事ですな」


 へー。割と最近の事なんですね。




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 ご老人を回想から引き剥がし終えたアタシ達の話題は、この部屋で起こった喜屋武さんの死へと帰還を果たしました。


「それでは……こちらのパソコンのモニターの方を見てもらえますかな?」


 喜屋武さんは、もう一人の喜屋武さんとでも言うのでしょうか……口から血を吐いて死んでいる己の遺体の方に歩み寄ると、デスク上のディスプレイを指差します。そこには、文書作成アプリケーション……つまりはメモ帳が全画面化された状態で開かれていました。


「先程から、事あるごとに恥を重ねておりますが……儂も当時には70を越え、日によっては物を見るにも難儀をする次第でしてな。文書を作成するにも、画面全体にアプリとやらを開かねばならんほどに耄碌もうろくしておったのです」


「いえいえ、70を過ぎてもパソコンで文書を作ろうとなさるのですから……耄碌ということはないでしょう」


 相手の謙譲的な態度や自虐的な態度に対して、サラッとフォローが出せるのはコムさんの長所なんでしょうね。唯一の長所でしょうけど、素直に憧れます。


「それで……普段からパソコンで文章を書かれていたのですか?」


 そのまま、コムさんは話題を軽く転換させました。


「死ぬ2年ほど前に会社創業の周年式がありましてな。そこに寄稿する文章を書いたのが切っ掛けとなって、暇を見つけては自伝を書いてみようかと思い至ったのです。とはいえ……パソコンに詳しいわけではないので、妻に教わりながら牛歩の進みで書き進めておりました」


 言い終わると、喜屋武さんのガハハ笑いが辺りに響きます。


「妻にはパソコンの起動から、アプリとやらの起動。さらには儂の拙文の校正から、目が不調の時には見えない文字を読んでもらったり……後はパソコンの電源を切ることですかな……要は一から十までを教わったと言っても過言ではありません。しかし……儂も、今となっては寄稿文と自伝のファイルをフォルダごとに保存できるほどにはなりましたぞ」


 何でもかんでもデスクトップに保存して、ショートカット塗れになってしまうのはよくある事でして……いやはや、整理整頓できるようになって喜んでいる喜屋武さんは、まるでお片付けできて喜んでいる子供みたいです。ちょっと可愛くも感じますね。


「奥様とは仲がよろしかったようですね」


 コムさんは奥さんとの関係性を確認すると……


「……良かった」


 喜屋武さんはそう断言しました。そして……少しのためらいを見せた後、デスク上のディスプレイを見るように促すのです。


「先程から恥を重ねに重ねておりますが、これこそが我が生涯最大の恥ですな。まさか生涯最大の大恥を、このように何度も人目に晒す事になろうとは……生前には予想だにしませんでした」


 重なる恥のミルフィーユ。旅の恥はかき捨てと言ったものですが、それは生者に取っての価値観なんでしょうね。現世における恥のミルフィーユこそが、こちらの世界の住人たちの大人気メニューとなって皆様に提供されていくというのは……なんとも皮肉なものです。


 さて喜屋武さんの示すディスプレイ。その画面の上部には血痕が残されていました。おそらく、吐血した際に口を手で抑え……そして血に汚れたままの手で画面に触れたんでしょう。それは ✓ のような形。言わばチェックマークのようにして残されています。その筆跡には苦しみと、消えゆく生への焦燥感が感じられるものでした。


 ですが……問題となるのはディスプレイ表面に残された血液の跡ではありません。ディスプレイ画面一枚向こうに残された、テキスト文章の方こそが問題だったんです。ええ……問題どころではありません、はっきり言って、問題作……いえ超問題作です。




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我、齢にして六十を過ぐまで仕事にばかり専心するのみの生であったものの


恥づべきことに、老いさらばえてから人生の伴侶を得たものである。


だが今を迎え、七十を越す身体は当然のことであるが


精神の老いは想像を絶するほどで、我が心を蝕む不治の病であったのだ。


もはや生命は長く持たないに違いない。


その事を考えれば考えるほどに鬱屈した精神は衰弱し、その毒は身体を害していく。


まるで糸が解れるかの如く、毎日毎日の摩耗の繰り返しが解れほつれを深刻にする。


そしていつの日にか、その糸は切れるのである。


もはや終焉は間近なのだ。


だが、その時を座して待つほどに、我が身体に時間は残されてはいない。


ならば、摩耗を続け、精神を病み、身体を侵されていく所以ゆえん


その因果となる糸を、自ら切る事こそに意味を求めるのだ。


褒められる事ではないのは百も承知である、しかし最後は自分で決したいと思うものだ。


せめて、全てからの解放、それをこそ望むのである。


つまり、心の平穏を保つためにも、私は生命の幕引きをしようと思う。それこそ唯一の落着となるのだ。


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 段落の文頭が一文字下げられていない事だけが、読みにくさの原因ではないでしょう。えっと……なんと言いますか、そこはかとなく古い文体とその内容が、読む者を拒んでいるかのようにも感じられました。


「これは……遺書なんでしょうか?」


 この文章の良くも悪くも圧倒的な存在感というか悲壮感を前にして、空気が重い感じになっていますが……意を決してか、コムさんが口を開いてくれました。ありがとうございます。


「さあ……、当時の儂は身体的にも精神的にも酷く参っておりましてな……それで、余命も長くはないであろう事に焦っておったのでしょう。まあ……古典調に格好をつけた言い回しの駄文ですな、何度も何度もお恥ずかしいことです」


 言われてみれば……精神を病み、肉体も衰えた嘆き。確かに遺書を思わせるその文面からは、その悲嘆がひしひしと感じられますね。


 しかし、当の喜屋武さんはと言うと……なぜか、その顔を紅潮させて見えます。きっとアレでしょう……過去の自分がド真面目に書いた文章が晒されているんですから……とても恥ずかしい思いであろうことは想像に難くはありません。


 そうですね、わかりやすく例えるなら……引き出しにしまったままのラブレターか、中二病を患っていた時に書いた小説かと言った所でしょう。そして、そんな空気に耐えかねた喜屋武さんは恥ずかしさのあまり、グラスの中身を一気に飲み干したのです。


「あれ? そのグラスって……デスクの上のと同じじゃないですか?」


 喜屋武さんがグラスを傾けた時、彼の手中のそれを見て、ふと気づきました。そのグラスがデスクの上に置かれているそれと同じ物だって。


「その通りです。よく気づかれましたな」


 褒められたので、ちょっと得意げになるあーし。たかがグラスの同一性に気づいただけで何を偉そうにと思うかもしれませんが、実はこれこそが大発見だったんです。すごいですよね、もっと褒めてくれてもいいんですよ。


「そこのグラスにですな……毒が入っておったのです。おかげでご覧の有様ですな。ガハハ……」


 自分の死因を笑いながら、あっさりと語る喜屋武さん。あーしの大発見は重要な情報を引き出すことに成功したようですね。


 さらには……あーし、もっとスゴイ事に気づいてしまいました。


 それは……ディスプレイには自殺を思わせるような文章があるにも関わらず、今の喜屋武さんは「毒が入っておった」って、そう言ったんです。つまりは、毒を自分の意思で入れたのではないということになりますよね。つまり……この死は自殺ではない、そういう事になります。


 コムさんも同様の思考に至ったのでしょう。神妙な感じの表情をしているのが見て取れます。そして、コムさんは口を開きました。


「失礼ですが……その毒は奥様がお入れになられたのですか?」


 あーしもそれが聞きたかった。だって、自殺じゃないんだったら……考えられるのはそれしかないですもん。


「まあ、それを考えることも含めて……お考え頂ければ幸いですな」

 

 なるほど。流石に本題だけあって、簡単に教えてくれるわけにはいかないみたいです。これこそが我々に対しての問題ということなんでしょうね。いいじゃないですか、存分に時間を使って考えてみせましょうとも。不謹慎ながら……楽しみになってきましたよ。


「えーっと、よくありそうな話としては……年の差婚なら遺産目当てと言うのがありがちですよね」


 こういう話題が好きなのは女性の特性なんでしょうね、あーしは思いついた事を口に出しました。


「遺産目当てか……あり得んでしょうな。そもそも遺産が目当てならば、儂が死ぬのを待てばよい」


 喜屋武さんはアタシの思いつきを否定する。となると、いったいどんな理由があったんでしょうか……


 考えようにも、まだ奥さんの情報が不足している事は確かですし、これは……情報を引き出さないといけませんね。


「奥様について……詳しく聞かせてくれませんか?」


 アタシはそう切り出しました。


「うむ……語らないわけにはいかないでしょうな、まず……」


 そして、喜屋武さんは奥さんについて語り始めると……言葉を続けていきます。


「儂の妻は…… Can May と言いましてな……」





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