第7話



「 Can …… May ?」


 喜屋武さんの妻の名前でしょうか。その名前は、音の響きが強く影響した為か……アタシの脳内では英単語化変換されてしまいます。


 Can May を力技で翻訳してみると……【5月することができます】もしくは【することができるかもしれない】。助動詞の連続はありえないので前者説が有力ですが、前者も助動詞の後の May を動詞として訳せられてはいないので……前者説・後者説は目くそ鼻くそ・五十歩百歩・どんぐりの背くらべと言った具合ですね。


 前者説と後者説が脳内比較されればされるほど……意味がわからない状態は、より意味がわからない状態を生み出します。まるで鶏が先か、卵が先かのようなジレンマ。そして……アタシはゆるやかな思考停止に陥るのでした。


「奥様は外国の方でいらっしゃるのですか?」


 【5月する】の謎に挑んでいたアタシを余所目に、コムさんが Can May の謎を解き明かすべく口を開きました。


「いや、まったくの日本人。黒髪美人な大和撫子ですぞ」


 あ……わかりました! わかりましたよ。つまりですね……喜屋武イコール Can なんです!


「儂の妻は、ある時期から熱心に社会貢献に取り組むようになって社会活動家を名乗っておりました。更に、その活動は国内だけには留まらず……なんでも、環境活動に取り組む少女を支援する為だとかで、海外にも足を伸ばすようになっておったのです」


「ああ、なるほど。現世では環境保護団体の活動が盛んになっているらしいですね。世界規模で有名な団体や人物が存在しているというのは、私も聞いたことがあります」


「そこで、海外においては自身を Can May とした方が英語圏でも覚えられやすく、通りが良いのでしょう。社会活動家として国内では喜屋武メイ、海外では Can May と名乗りを併用し、そのせいもあってか、多少なりとも名が知れた存在になっておったようですな」


 喜屋武さんとコムさんの会話が Can May の謎を完全に解明しました。ええ……私も知ってましたよ。知ってたけど言わなかっただけです。ただ、ちょっと会話に乗り遅れたとでも言いますか……まあ、そういうことです。


「儂も化学企業を率いた身でありまして……環境によい企業であったかと言うと、そうとは言えなかったでしょう。ですので、罪滅ぼしとして妻の活動を応援しておりました」


「応援なされていたということは、奥様との関係は良好だったようですね」


 喜屋武さんとコムさんは話を続けています。アタシは、その会話に耳を傾けていました。


「応援と言っても金銭的な面のみですがな。もはや儂の老いた体では、共に海外へ行くことも叶いません」


 確かに例の遺書らしき文章でも、身体面の不調が述べられていましたね。目の調子が悪いのは先程に伺いましたけど、多分……他にも色々な不調をお抱えだったんでしょうね。


 アタシは、こっちの世界での喜屋武さんしか知らないので、ちょっと古風でお茶目なお爺さんにしか感じられませんでしたが……現世ではご自身の老いへの深い悩みをお持ちだったのでしょう。


「ところで、ある時期から奥様が社会活動に取り組まれたとのことですが……それはいつぐらいの出来事でしょう?」


「そうですな……この現場、儂の死の瞬間から遡ること1年程前と言ったところですかの。ええと、儂の死亡から逆算しますと……2019年の9月あたりでしょうな」


 コムさんの問に、喜屋武さんは頭で軽く計算を済ませると……


「まだ、件の流行り病が姿を見せる前でしたからな。妻も頻繁に海外へと足を運んでいたものです」


 今、こちらの世界にも暗い話題をもたらしている……例の感染病の話題を持ち出し、解答するのでした。


 それからしばらくは、例の感染病に話が逸れていきます。なにぶん、こちらの世界に来られたばかりの新参者が語る現世の話題には、必ずといってよいほど、その話題が含まれている状相が続いています。おそらくは現世において長く続いている問題なのでしょう。早く収まるといいですね。こちらの世界に来られた方から、例の感染病の話題が出てこなくなるよう願っておきます。そして、我々に何か別の話題をもたらしてくださいね。




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「妻が社会貢献だと言って海外へ足を伸ばすようになって以来、我が家には妻が不在となる事が増えましてな。儂が文章を作成する際に目の不調を補助してもらう為にも使用人を雇ったりもしたのですが、いくら使用人に夜勤までしてもらい、執筆作業を手伝ってもらったからといって……それでも一人孤独の時間は増えていくのです。そして、お恥ずかしい事に……嫉妬心とやらが芽生えてしまったのですな」


 暗い表情で喜屋武さんが語っています。こういった重い話題だとアタシもコムさんも口を挟む事は出来ません。ただ、喜屋武さんの独白を神妙に聞くだけです。


「そこから半年ほどかけて、儂は日毎夜毎に嫉妬に身を焼く醜い老人に成り果てていったのです。妻は社会貢献の為に今日も帰宅せんのだとは存じておるのですが、儂の頭には不貞で邪な想像ばかりが想起される。そして精神の平衡が傾けば、同様にして身体も異常をきたす。まさにどん底、絶望の淵というに相応しい有様とでも言いましょうか」


 重い話に空気も重く感じられます。それが理由という事はないんでしょうが……先程までよりも喜屋武さんの皺は深く沈んでいるように見えました。


「しかしながら、どん底とはいちばん下の底を意味するのです。以降は儂の精神面は上向きに転じたのでした。なぜなら、その時期あたりから渡航する事が難しいご時勢になっておったのです。すると、妻はなかなか海外へ行く事も叶わず、家に居ることが増えたのですな」


「そのようにして、妻と過ごすの時間が増え……儂は絶望の淵から脱することができたのです。苦戦しながら執筆を続け、冷えたワインを喉に流し込む儂に、ベッドの上でスマートフォンをいじりながら酒を控えるよう言う妻。冷めた間柄にも思えるかもしれませんが、儂に取っては、妻がすぐ側にいてくれる……たったそれだけのことが、儂の心を癒してゆくのです」


 重かった話は心持ち軽くなってきました。喜屋武さんの表情も先程までとは一変し、深く沈み込んだ皺はまるでシワ取り美容グッズを使ったかのように目立たなくなっていますね。


「そして儂の目が不調の時やパソコンの使用に困った時には、側におる妻が助けてくれる。そのような日々を過ごしておるうちに妻への邪念は氷塊したのですな」


 よかったよかった。これでハッピーエンド……って終わったら話が早いんですけどね。それではこの部屋に2名存在する喜屋武さんのうち、遺体の方の喜屋武さんの謎が残ったままになってしまいます。さすがにそうはいかないでしょう。


「なるほど。喜屋武さんの奥様への気持ちが上向いていったというのは理解できましたが、奥様の方はいかがだったのでしょう? 喜屋武さんの不信感に気づいていたりはしていなかったのでしょうか」


 軽くなった空気が、再び重くなりそうな質問に切り込むコムさん。その質問が必要なのはわかるんですが……空気同様、アタシの気も重くなりそうです。


「どうでありましょうか、妻は賢い女でしてな……わかっていたのかもしれません。ただ、老いた身になってこそ宿る、理性を失ったかのような執念を理解するには、まだまだ若いようにも思われますな」


 またも重い話に入ってしまうのは避けたい。そんなアタシは別の話題を求め始めました。


「ところで奥様って、喜屋武さんが執筆している間はずっとスマートフォンをいじっていたんです? 何をやってたんでしょうか?」


 と、アタシは出来るだけ軽めな声色で発しました。気は重くなりましたが、せめて話題は軽く。そして出来る事なら体重も軽くという思いを乗せたアタシの渾身の質問に、喜屋武さんはこちらに向き直ると答えてくれます。


「儂も多少はパソコンに習熟し、頻繁に妻に助けを求めるのではなくなりましたからな。妻も暇な時間が多いのでしょう。ほら、そこのベッドの上に横になりながらスマートフォンをいじっておりました。そして何らかのゲームをやっておったらしく、儂のスマートフォンにもそのアプリを入れたようでしてな……2台のスマートフォンを使いながら、レアだの何だのと感情を起伏させておったものです」


 俗に言う2垢ですね……そしてガチャゲーの気配もします。





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