第4話
それは、暑くも寒くもなければ朝でもなく昼でもない。もちろんのこと夜でもない。そんな時間の概念が消えている世界でのことです。ただ落ち着くというだけで作られたオフィス風の地味な部屋。
ただし、向かいのデスクにコムさんはいません。それもそのはず……彼は部屋の片隅にあるソファーにお客様を迎えているところでした。
「本日はお越し下さり、誠にありがとうございます」
ちょうどソファーに着座したところのご老人に、コムさんは丁寧なお礼を述べています。普段の
「いや、こちらこそ丁重なお招きに感謝申し上げますぞ。それよりも先達にお誘いを受けてからの遅参に、ただただ恐縮する次第で……」
コムさんの生真面目な対応に、ご老人も丁寧な対応を返しました。いわゆる社交辞令。その延長線上のやり取りが行われています。
ただ……少し不思議に感じられるのは、見た目七十ほどのご老人が三十程度の男性に対し先達だって言ってる事ですよね。実は……このご老人、こちらの世界に来られて、まだ長くはない方なのです。だから、コムさんの事を先達だなんて言って恐縮しているんですね。現世では、なかなかお目にかかれない光景かもしれません。
まあ、それを言うなら
ということで……我々のオフィスに久々のお客様を迎えることが出来ました。暇を持て余した
まとめますと……
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その会話の合間、いつの間にかご老人はワイングラスを具現化させていました。そして時折、その中身の濃紫色の液体を飲もうとグラスを傾けています。飲み終わった空のグラスには、再び濃紫色の液体が具現化されました。きっとワインでしょうね、だってワイングラスですし。しかし……ちょっと飲み過ぎな気もしますが、この世界の住人となった以上は、食欲や喉の乾き、そして酔いそのものを知覚する事はないに等しいのです。きっと飲酒の雰囲気だけでも味わっておられるのでしょうね。
延々と……傍から見れば、祖父・父・娘の団欒トークといった具合の会話が続きました。なにせ、我々には永遠の時間が存在するんです。本題だけで終わってしまっては勿体ないですからね。たかが雑談だろうと、楽しまなければ損なんです。
しかし、話が長く続いていくと……残念ながら話のタネは切れてしまうものでありまして、いずれは本題に入る時が来てしまいます。他愛のない雑談を惜しむ気持ちもありますが、そろそろご老人のお話。つまりは本題の【物語】を聞く時が来てしまったようですね。
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「
ご老人は手に紙とペンを具現化すると、そこに自身の名前を記していきました。記した後の紙を具現化すればいいのではと思うかもしれないですけど、書くという行為自体、サボり始めるとあっという間にペンが手に馴染まなくなっちゃいますからね。いい事だと思います。
名前を書き終えた老人の節ばった手からはペンが消えました。ものを書くという理由を失ったペンは、再び必要とされるまで長い眠りについた……とでも表現したら、格好いいですね。さて、ペンが姿を消すと……薬指の指輪のみが目立つようになった老人の手は、名前を記した紙をその手に取り、そのまま……こちらに見せてくれました。そこには……
【喜屋武武】と記されています。
「……きやぶぶ」
「きやぶぶですか。久しぶりに聞きましたな。いや、現世でも、そう読まれた事は数知れずでありまして……お気になさらず」
「お名前を間違えるとか、本当に申し訳ありません」
読み間違えた事は素直に謝罪しました。しかし、間違えたと言うのは正確ではありませんね、【わからなかった】んです!
さて……この機会。あーしはそれだけで済ますつもりはありません。ソファの奥で息を殺しながら笑っていたのは知っていますよ、コムさん。恥をかくなら一蓮托生……あーしはコムさんを巻き込み事故の生贄へと誘うのです。
「えっと……コムさんは読めるんですか?」
さあ、これで逃げ場はないです。一人だけ、高みの見物は許さないですよ。さあ……一緒に恥をかこうじゃないですか。
「きやぶぶって読み方だと……なんとなく
えっと……コムさんは、まったく意味のわからないことを言い出しました。ぼつぼつって何でしょうね?
「ガハハ、言われてみればその通り。確か……匈奴の英雄でしたな」
「ええ、そうです。五胡十六国時代の夏の国の祖ですね。三国志の時代より少し後、あまり人気のない時代なのですが……個性的な名前や役職が存在していたりと面白い時代です」
とりあえず、コムさんが雑学オタクなのは知っていましたけど……
「例えば……宇宙大将軍ですかな?」
中国史から似つかわしくない名詞が飛び出してきますね。うん、まったく意味がわかりません。
この後……コムさんと
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「怒ってる? えっと……喜屋武武って書いて、【きゃんたけし】。そう読むんだよ。合っていますよね?」
あたかも河豚かハムスターか……件の生物に勝るほどの大きさまで頬を膨らませたあーしに、ようやく気づいたのでしょう。歴史トークに花を咲かせていたコムさんは話題を戻してくれました。遅れてあーしを見やった喜屋武さんはというと、頬の膨らみにちょっとだけ驚きながらも……
「その通りです。喜屋武は沖縄に見られる名字でして、本土においては珍しいでしょう。読めなくとも恥じるものではありませんな」
と、優しくフォローを入れてくれました。そうですそうです。別に恥とか思ってなんかいませんよ。本当ですって。
「この名前は名字が難読であることよりは、名前の武が名字と重なることが問題なのでしょうな。幼い時には、何故にこのような名前を付けたのかと両親を恨んだものです。とはいえ、年を経てからは……逆に強い個性だと思えて誇らしく思えるようになりましてな、人というものは変わるものです」
「子供の頃って、普通とちょっとでも違うだけで……周囲からイジられちゃう所がありますよね。わかります」
あーしも、子供の頃におゆきと呼ばれることが嫌いだったので、はい……その気持ち、よーくわかっちゃいますよー。
「いやはや、名前の事で話が逸れてしまいましたな……申し訳ない」
喜屋武さんは性根が優しいんでしょう。話が逸れた責任を、自ら負おうと発言するのですが……
「いえいえ、話が逸れてしまったのは【きやぶぶ】と言い出した彼女のせいですから、お気になさらず」
コムさんは容赦がないのでした。
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「それでは……今度こそ本題に入るとしましょうか」
取り直した喜屋武さんは場を仕切り直しました。
「そう、今から儂がしようとする話なのですが……それは儂の死に関してなのです。お二方にはそれを聞いて、少し考えてもらいましょうかな」
本題に入るというのですから、聞き入る準備は整えていました。ですが、流石に死に関する話と聞いては心構えを改めましょう。
「そこまで真剣に聞かなくとも大丈夫です。今から語られる話は、さして陰鬱でもなければ悲愴なものでもありませんからな。気楽に聞いてください」
そう言うと、喜屋武さんはガハハと笑い……その手に包んだグラスの中身、濃紫の液体を一気に喉に流し込んだのでした。
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