第5章 水縹~gentle rain~
5-1
ハルが夏紀にプロポーズした日の夕方。
夏紀は家の前までハルに車で送ってもらい、そのまま二人で家の中に入った。朝のことは既に父親にも伝えられていたようで、リビングで向かい合って座った。
ハルが来ることを予想していたいのか、すぐに明美はお茶を淹れてきた。ハルとお茶が似合わなくて、夏紀は周りにバレないように少し笑った。
「ねぇ、晴仁君、今朝のこと、詳しく聞きたいんだけど」
明美は笑顔で聞いたけれど、父親の顔はなんとなく引きつっているように見えた。
「はい。朝は、真剣にお付き合いしてると言ったんですが──」
ハルは一旦、言葉を切って、夏紀の両親を交互に見た。母親はその先の明るい話を想像していたようで、けれど、ハルの「が」という言葉で表情を変えた。父親はさきほどと変わらない、少し怖い顔だ。
「夏紀さんと、結婚させてください」
「んまぁ! 夏紀が……! 良いわよね、お父さん」
明美はものすごい笑顔で聞いたけれど、父親はやはり不機嫌そうに溜息をついた。そうきたか、と腕を組んで、天井を見上げた。
「さっきは『晴仁君なら任せられる』って、言ってたじゃないの」
「えっ、そうなの? お父さん」
それは秘密にしておいてほしかったようで、父親は再び長い溜息をついた。ハルと夏紀は父親の返事を待っていたけれど、彼は「好きにしなさい」と言って、リビングから出て二階に上がってしまった。
「お義父さん……許してくれたんでしょうか」
「きっと寂しいのよ。気にしなくていいわ。それよりあなたたち、いつから付き合ってたの? お見合いも嫌だ、って言ってたのに」
母親の質問に、ハルと夏紀は顔を見合わせて笑った。
笠井家も木下家も夕食まではまだ時間があったので、ハルと夏紀は木下家へ行った。ハルが両親に夏紀と結婚すると言うと、もちろん夫妻は大喜びだった。
「こないだまで、とんだバカ息子だと思ってたけどな……」
「バカじゃないよ、俺」
「なに言ってるんだ、就職もしないでいつもフラフラして」
「あの頃なんだよ、ナツと出会ったのは」
ハルの言葉に良夫は「まさか」と言い、夏紀のほうを見た。
「本当なんです。私が出てたピアノの発表会に、偶然ハルさんが聴きに来てて……」
それでも良夫はまだ信じられないようで、ハルは証拠を持って来ると言って一旦部屋を出た。
「夏紀ちゃん、嘘は嘘って言って良いんだよ」
「いえ……。本当に、本当なんです」
「でもそれだと、あれ何年前? 夏紀ちゃん、まだ──」
「中学三年でした、私」
夏紀が答えたのと同じ頃、ハルが何かを持って部屋に戻ってきた。
それをテーブルの上に広げ、一点を指差した。
「ほら、ここ。ナツの名前」
「わ、懐かしい!」
ハルが持ってきたのは、当時のピアノの発表会のプログラムだった。夏紀も二部くらいもらっていてアルバムに挟んだ気がするけれど、いまどこにあるのかはさっぱりわからない。もしかすると捨ててしまっているかもしれない。
「もう一つ証拠。ナツの写真」
「え?」
発表会場は撮影禁止ではないから、撮られていても不思議ではないけれど。
後部席から撮ったのか、あまり鮮明ではない写真の中央に写っているのは、『きらきら星』を弾いている夏紀の横顔だった。
「写真まで撮って……。夏紀ちゃん、こんなので、良いの?」
容子が言う「こんなの」にハルは不機嫌な顔をした。
「私、ハルさんのこと、尊敬してるんです。最初は──去年会ったときは、何この冷たい人、って思ったけど、ピアノは上手いし、料理も上手だし、優しいし、モデルだし」
「なんだって?」
夏紀の最後の一言は、結婚の報告以上に夫妻を驚かせたらしい。
期間はまだまだ短いし掲載される雑誌も若者向けだから、気付かなくてもおかしくないし、夏紀が知ったのも、本当に最近だ。
「人気なんですよ、ハルさん。お店でも、注目されるから、ってあんまり接客しないし」
「俺は──。ナツ、送ってくよ。そろそろ晩ご飯だろうし」
ハルは何か言いかけたけれど、立ちあがって夏紀を連れて出た。
笠井家の門の前で、ハルと夏紀は離れられずにいた。木下家をハルに連れられて飛び出して、靴もちゃんと履けていなかったけれど。
朝から降っていた雨は今も降り続き、二人は一つの傘に入っていた。傘に落ちる不規則な雨音が時間の経過を告げる。
「ハル、さっき何か言いかけなかった?」
見上げながら夏紀が聞くと、ハルと目があった。
「ナツだけだから。俺が人気だとしても、俺はナツ以外の女に興味ないから」
外はすっかり暗くなっているけれど、ハルが真剣な顔をしているのはすぐにわかった。
ハルが夏紀にフェルマータをつけて、降っているはずの雨の音はしばらく聴こえなくなった。
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