3-10

 さやかと別れた夏紀は、もちろん自宅を目指していた──けれど。

 門を開けようと手を掛けて、ふとそれをやめた。

「──ハルさん!」

 ピアノ教室の二階の窓に、ハルの姿があった。オカリナを持って、夏紀を見ていた。

 そして手招きするハルに誘われて、夏紀はピアノ教室に入った。夫妻が在宅だったので軽く挨拶して、二階のハルの部屋を目指した。

「久しぶり。元気だった?」

 ハルが挨拶をしてくれるのは、ものすごく珍しい。

 それも笑顔で上機嫌で、こんなことはカフェでも滅多にない。

「それは、こっちの台詞です」

 そうか、と笑いながら、ハルは窓を閉めた。机の上にオカリナを置いて、夏紀に適当に座るように言った。

「ハルさん、どこ行ってたんですか?」

「どこって、仕事だけど」

「仕事って……カフェ以外の?」

 夏紀はさやかが言っていたことを思い出した。

 さやかは何か情報を手に入れていたのだろうか。

「カフェの仕事は城崎さんやテツに任せてるからね。たまにメニュー考えたり、あんたと演奏するくらい。空いた時間は、他の仕事してる。そっちが本業なんだけど」

「本業って……何なんですか?」

「何だと思う?」

 初めてハルに会ったとき、ものすごくイケメンだと思った。もちろん、それは今でも変わらないし、カフェでも女性客のハルへの視線が熱い。

「うーん……モデル」

「あれ、簡単だった?」

「……え? 本当なんですか?」

「そ。それでよく、あちこち行ってる。まだ始めたばっかだけどね」

 夏紀はもう、言うべき言葉を見つけられなかった。

 ごく普通のOLと、何でもこなす完璧なモデル。

 比べる対象にならなさ過ぎて、隣にいるのが申し訳なかった。

「あの……私やっぱり、ピアノ」

「付き合おっか、俺たち」

「──え? や、やめてください、冗談は」

 夏紀はハルのことが好きではある。だからそう言ってもらえたのは、冗談だとしても嬉しかった。一緒にいるのは楽しいし、最近は冷たい言葉も減った。

 けれど夏紀はどうしても、ハルに本気にはなれなかった。

「それに、ハルさん、お見合い断ったじゃないですか」

「お見合い断ったのは、知ってたからだよ。どうせならナツとは、普通の恋愛したいなーと思って。俺のこと嫌い? それとも、年上すぎる? 冗談じゃないよ?」

「いえ、そんな、嫌いとかじゃなくて……。気になって、ピアノに集中出来なくなるから……ハルさん、上手いから……」

 前みたいに逃げ出すことはないかもしれないけれど。

 ハルのことを考えすぎると、本当に演奏を間違えそうになる。

「俺があんたのことナツって呼んでるの、テツ気にしてるよね。まぁ、今はテツは置いといて──俺がそうやって呼ぶのは、出来る奴だって認めてるから。だから、自信持て。……返事は?」

「──はい。でも、私」

 やっぱりハルさんには並べません、と言おうとして、夏紀は口をハルの人差し指で閉じられてしまった。

「ナツが気になるなら……さっきのは保留にする。だけど、俺と比べて……そんなんでピアノ辞めるとか言わないでほしい。好きなら好きで、楽しんでれば良いんだ。俺が認めてるんだからさ」

「──わかりました。ハルさんって、苦手なこと、あるんですか?」

 イケメンで、モデルで、楽器が弾けて料理も上手い。

 言葉はときどき冷たいけれど、本当は優しくて強い心を持っている。

「あるよ。自分の気持ちを抑えること。俺、苦手」

 そう言ってハルは、クローゼットから小さな箱を取り出した。

「これ、こないだ撮影に行ったときに見つけてさ。ナツ、持ってないって言ってたから」

 綺麗にラッピングされた箱を開けると、淡い木目調のオカリナが入っていた。デザインも音色も夏紀の好みで、何より両手にすっと馴染んだ。

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