3-9
「本当に、いないんですか?」
「そうなのよ。本当にどこに行ったのやら……」
夏紀はハルの自宅──木下ピアノ教室を訪ねていた。
もしかすると家にいるのかもしれない、とほんの少しだけ思ったけれど、彼は家にはいなかった。
「まぁ、今さらだけどね」
ハルの行動を木下夫妻は把握しておらず、カフェのオーナーをしていることも、つい先日まで知らなかったらしい。
「私たちが料理出来ない事が多いから、教えてはいたんだけど……まさかお店やってたなんてねぇ。本当に何も言わないんだから、晴仁は」
ハルと一緒にいるところを夫妻に目撃されたあの日、ハルは全てを両親に話したらしい。
夏紀が引っ越してきてから、ずっと見ていたこと。
雨の日に偶然出会って、傘を貸したこと。
夏紀がカフェの常連客になって、ピアノを頼んだこと。
その後、夏紀は辞めたけれど、あの日に再開を決めたこと。
「ねぇ、そのカフェ、美味しいの?」
容子はまだハレノヒカフェには行っていないらしく、夏紀に店のことを聞いてきた。
「すっごく、美味しいです。お店の雰囲気も良いし、女の人が経営してるのかと思ったくらいで……。バイトの男の子が、ものすごく尊敬してるんです、ハルさんのこと」
「へぇ。一度、行ってみないとね」
「はい、ぜひ」
ただし雨の日は休みです、と笑いながら、夏紀はピアノ教室を出た。
ピアノの練習にはいつでも付き合う、と言っていたから週末には戻って来ると思っていたけれど、一週間経っても、二週間が過ぎても、ハルは戻ってこなかった。
こんなことは、木下家では日常だったらしいけれど。
もちろん、ハレノヒカフェにとっても、よくあることらしいけれど。
(でも……寂しいな……)
ハルがいないということは、もちろん、オカリナの音色も聞こえない。夏紀が落ち込んでいるときはいつも優しいメロディに助けてもらったし、そのことはハルにも話していた。けれど今、夏紀を元気付けてくれる存在は、近くにはいない。
「イケメンは受け付けない、って言ってたの、誰だっけ?」
カフェでピアノを弾いた帰り、ハルの心配をする夏紀をさやかが小突いた。
「うん……そうだけど……それとは別問題だよ。いろいろ話してくれたから、仲良くなったのかなーって、思ったけど……やっぱり、気のせいなのかな」
「ねぇ、オーナーってさ。他に何か仕事してる?」
「さぁ……聞いたこと無いけど。してるのかな。でも、してたとしてもサラリーマンではないよね、絶対」
時間がバラバラだし、デスクワーク苦手そうだし、そもそも似合わないし。
でも、案外、まじめな仕事が好きだったりして。
そんなことを言って笑いながら、夏紀はさやかと別れてプロヴァンスの坂を下りた。
夏紀の背中を見つめながら、さやかは鞄から雑誌を取り出した。
二人で見ようと思って持ってきていたけれど、カフェで夏紀の到着を待っている間にそれをやめた。夏紀に見せて良いのか、わからなかった。
だから、家には入らずにそのままカフェに戻った。
恵子と徹二に、確認するために。
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