3-4
それからしばらくの間、夏紀の生活に特に変化はなく──。
さやかと一緒に遊びに行って、ストレスはほとんど発散できた。年が明けてバレンタインの頃に温泉に行こうという話になって、カフェでお茶をしながら行き先を色々と調べた。
「ゆっくり浸かって美味しいもの食べて、それから……」
ブーブーブー……ブーブーブー……
「あ、ごめん、電話だ──もしもし」
マナーモードにしていたさやかの携帯電話が鳴った。表情や話の内容から、相手は婚約者だとわかった。さやかはディナーに誘われているらしい。
「良いよ良いよ、私は一人で大丈夫だから。さやか、行っておいで」
「うん……ごめんね、ありがとう。それじゃ、またね」
駅まではさやかと一緒に歩き、夏紀は自宅方向へ、さやかはそれとは逆方向への電車に乗った。
自宅最寄駅で電車を降りて、夏紀はプロヴァンスへ足を向ける。
けれど数歩進んだところで、進行方向を変えた。近くに本屋があるので、寄っていくことにした。さやかと計画した旅の行き先と、オカリナの楽譜を探そうと思った。
旅行ガイドブックのコーナーで温泉特集を一冊選んで、楽譜のコーナーへ。
(やっぱり、旋律だけ……か)
それなら知ってる曲を吹けるな、とか、やっぱり楽譜は必要かな、とか、そもそもオカリナを持ってないな、とか、いろんなことを考えながら、いつの間にか夏紀はピアノの楽譜を手に取っていた。
(ピアノ……。ま、いっか、温泉のだけ買って帰ろう)
ピアノの楽譜を棚に戻して、夏紀はレジへ向かった。そしてドアの方へ歩いているとき、反対に入って来る人たちが共通して持っているものを見て少し不安になった。
(あー……そういえば、夕方から降るって言ってたっけ……)
嫌な予感は的中で、外は雨が降っていた。テレビのニュースで天気予報を見て、雨に濡れないうちに早めに帰ろう、と思ったはずなのに。
駅を出たときは降っていなかった。
本屋に入っていなければ、こんなことにはならなかった。
「そんなに傘が嫌い?」
二度あることは三度ある、とは言うけれど、これは本当に偶然なのだろうか。
「天気予報は雨って言ってたのに、なんで傘を持ってこないかな」
夏紀は声の方は振り向かず、ただ降り続ける雨を見ていた。
「関係ないじゃないですか……もう……」
夏紀は買った本を鞄の中に押し込んで、思い切って雨の中へ走り出そうとした。けれど数歩走ったところで、強い力で引き戻された。
「関係なくない」
「……ないですよ。あんなこと言われて……離してください」
「また見つける、って言ったはずだけど」
「新しい人、探すんですよね」
ハルは何も言わず、じっと夏紀を見つめた。そして持っていた傘を広げると、そのまま歩き出した。
「ちょっと、どこ行くんですか、離してください」
「どこって、家」
「だったら一人で良いじゃないですか」
夏紀の言葉は聞き流し、ハルは歩き続けた。進行方向はプロヴァンス──だけど、ハルがどこに住んでいるのか夏紀は知らない。
「俺、前に言ったよね。もう、傘は貸さないって」
「言ってました、だから放っといてください」
「連れて帰る、って意味」
ハルの言葉に一瞬、夏紀は言葉を失った。相変わらず夏紀はハルに捕まえられているし、ハレノヒカフェで言われた言葉も忘れたわけではない。
(でも、やっぱり……良い人……なのかな……)
夏紀は抵抗するのをやめて、黙ってハルと並んで歩いた。雨が少し強くなったので、離れていると濡れてしまうし、ハルが自分よりも夏紀のほうに傘を傾けているような気さえする。
「あのさ──うちに寄ってかない? 話がしたい」
「え……それは……」
「別に襲わないよ、両親いるし」
それなら大丈夫か、と変な安心をして、夏紀はハルの家に行くことを承諾した。ただし、夏紀も家で両親が待っているので長居はできない。
二人はそのまま住宅街を歩き、視界には夏紀の家も入るようになった。
「あの、ハルさんの家って……」
「来たらわかる。あ──車が無いってことは、カギかかってるな……ごめん、裏から入って」
もう着いたんですか、と聞く間もなく、夏紀は裏口からハルの家に入ってしまっていた。そして帰りは玄関から、と靴を持って歩く廊下は、なんとなく見覚えがあった。家の奥にはリビングがあり、その手前の部屋にはグランドピアノが二台置かれた広い部屋──。
「もしかして、ハルさん」
「やっと気付いた?」
立ち尽くす夏紀をよそにハルは笑いながら、そのまま階段を上がっていく。夏紀も慌てて靴を置いて、あとを追った。
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