道標
朝陽乃柚子
道標
ここはどこだ。見知らぬ部屋の天井で、彼は目を覚ました。
頭痛がする頭を庇いながら、ゆっくりと起き上がる。ここはホテルの一室のようだが、彼にはチェックインした記憶はない。いや、そもそも俺は何をしていた?ホテルに入る前の記憶どころか、彼は彼自身に対する全ての記憶を無くしていた。
まだ頭痛が収まらず、ベッドの横にあったソファに腰を下ろしながら、自分のことを思い出そうと頭の中を覗き込む。だが、彼の頭の中は空っぽのままだった。
そんな状態のまま、少しの時間が過ぎた頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた。来訪があるとは思わず、慌てて返事をするとドアが開き、黒髪を後ろで束ねた女性が食事を持って入ってきた。
彼が怪訝な視線を注いている事も構わず、女性はソファーの前に食事を置くと、彼に向かって軽くお辞儀をし、何も言わず退室した。
何が何だかわからず彼はポカンとしていたが、女性が運んできてくれたケチャップのオムライスを見ると、途端に食欲が湧いてきたので口に運ぶ。オムライスは、いささか塩味がきつめで彼の口には合わなかったが、まずいと判断するほどでもなかったので、彼はガツガツと平らげた。
何もすることがなくなってしまった彼は、部屋を出てみることにした。廊下に出ると、よく掃除された絨毯が敷かれた上を遠慮がちに歩きながら、エレベーターへと向かう。そして自動ドアが開いた時に、中にいた小さな男の子とすれ違った。男の子はニコニコとした様子で何かを呟いた。彼の耳に届いていたが、彼はそれに気づいていない。
中へ入り、ここが六十階であることを知った彼は少々驚きながら、1階のボタンを押す。
エレベーターは彼を優しく包み込むように、1階へと誘った。
ロビーへ着くと、エントランスへ足を向ける。その時にふと前を見て、エントランスの先に駐車されたメルセデス・ベンツの車が視界に入った。
そこで彼は全てを思い出した。
さっき部屋で食べたオムライスは、彼が幼い頃に母が作ってくれたオムライスそのものだった。そして食事を運んできてくれた女性は、彼の妻だった。塩味がきつかったが、不器用な母が作ってくれたオムライスが彼は大好きだった。そして妻の作るオムライスも、彼の母が作るものとそっくりの味だったことを思い出した。そして先ほど六十階ですれ違った男の子は、彼の息子だった。先ほど息子が呟いた言葉がなぜか今になって形を持った。ありがとう、そう息子は言ったのだ。
そしてエントランスの先にあるメルセデス・ベンツの車は、彼の愛車だった。車好きの彼が必死に働いて稼いだお金で背伸びしてかった車だった。近場だからという馬鹿馬鹿しい理由でシートベルトをしていなかったのだ。だから、俺は今ここにいるんだ。
気がつくと、後ろに妻と息子がいた。彼は二人に、行ってきますと言って、エントランスを出ていく。そんな彼には聞こえない小さな声で、息子はさよならと呟いた。
道標 朝陽乃柚子 @photoyuuta
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