第4話 名前

 明日、学校が休みで、誰かの誕生日にケーキが食べられる事を単純に喜び、調子に乗って学校から横須賀駅までスキップして来た美宇。横須賀駅始発の上り電車はすでにホームに止まっている。下り電車がホームの反対側に入って来た。下り電車が出ると、続けて上り電車が発車する。


 下り電車の乗降客が改札口を埋める前に、ホームに入ろうと振り返るとランドセルの留め金を忘れ、横須賀駅構内のコンクリートの床の上に、ランドセルの中身をばらまいた美宇が、一人でもめている。「早く拾え」と言いながら僕は、ホームに止まった下り電車のきおに気をとられた。


 そのセーラー服の女子校は校則が厳しくて有名だ。彼女以外の女学生は、スカートの丈を長くしたり、短くしたりと、思い思いに校則違反を楽しんでいたが、彼女は何ひとつ校則違反をしたことがないと思われるほど、真面目な風貌に似合わないオレンジの瞳が、深い琥珀色に近く輝いていた。


『どこの国の人だろう?』


 黒い前髪の間から見える目は、エリ姉さんの家で飼っているキジトラ猫アジュマの瞳とそっくりなオレンジだった。


 アジュマは驚いてパニックになると押入れの隙間やソファーの中に隠れて飲まず食わずで、数日は出てこないほど臆病だ。警戒心が強くエリ姉さん以外には触らせない。さらに僕はひどく嫌われており、常にアジュマの居場所を気にして目を合わせないようにしていないと突然ひっかく、かみつく、猫パンチなどで攻撃されるためいつも生傷が絶えない。


 今朝も通学カバンを取ろうとして、突然襲いかかって来たアジュマにつけられた手の生傷をなでながら


『そうだ、だから僕が今ここにいるのは、親が韓国から日本に来たせいだし、美宇が生まれたせいだし、エリ姉さんが短大に入ったせいだ。それにしても人間のくせにアジュマに似ていた』


 一連の出来事を反復しながら、気が付けば僕は美宇と二人で待合室にいた。


 看護師さんが来て佑泰という字はどのように呼ぶの?と聞かれた。日本語は名前の読み方が数多いし複雑だ。


「ユウダイ」と答えると「いいお名前ね」と看護師さんが微笑んだ。

「きっとご両親は人を助けられるような大きな人になって欲しいと思ったのね」


 いや、違うと思う。


 日本に来ると突然に【ユウダイ】と言う名前が増えた。日本人嫌いの在日韓国人の叔父が言うには日本にいる間は、김우태金佑泰「キム・ウテ」という韓国名を日本語読みした方がつらい目にあわないそうだ。


 日本生まれの妹のミウは漢字で美宇と書き、エリ姉さんは愛理と書く、二人ともハングルでも日本語でも読み方が変わらない漢字と、国際的にも通用しやすい発音を考えて名付けられていた。いくつも名前がいらないのは少し羨ましい。日本に来たからと、読み方が変わる事に抵抗があった。


 いつか自分の本当の名前を堂々と言える日が来るのかな?日本名を呼ばれるたびに僕はいつも複雑な思いがよぎる。

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