第1章 階段のない駅 1990年5月11日

第1話  五月風(さつきかぜ) 

 下り電車が停車して、ドアが開いた。


 同時に子猫のような細い髪の毛が、ふあっ、ふあっ、ふあっ、とダンスをしている女子学生が目に留まった。数駅離れた私立の女子校のセーラー服を着ているその子は、胸元まである髪をおさげにしていた。


 階段のない横須賀駅は、構内と改札口とホームはひとつに繋がった風景だ。通学帰りの駅は、梅雨に入る前の心地よい、五月風と潮風に包まれていた。


 二つ足しても、他の生徒の一つ分にも満たない、その細い三つ編みは、横須賀駅に隣接している臨海公園の海風に身を任せ、子猫の尻尾のごとく、肩もとで緩やかに戯れている。スローモーションのように、ゆっくり動いたそれらは、背後にいた男が女子学生の肩に無造作に触れ、女子学生が振り返った瞬間に早回しになった。


 女子学生は、猫が驚いて飛び出すように、改札口へ物凄いスピードで向かってくる。体を大降りに揺らしながら、コッツン、コッツンとリズミカルに軽やかに、一足分ずつ片足を蹴り上げながら…。

 

『足が悪いのかな?あの歩き方で、どうやったらあんなスピードが出るのか不思議だ』


 僕はただぼんやり思った。そのまま改札口をすり抜けて、瞬時にして僕の目の前に姿を見せた。


 そして、次に絵本を一ページずつめくるように急にゆっくりと、五月風に舞う黒髪と対照的な静かなオレンジの瞳で、僕の目を真っすぐに見つめながら、身長が僕とほとんど変わらない彼女は僕の腕の中にするっとタイミングよく滑り込んで来た。


 驚く間もなく、ガツンとひどく耳障りな音とともに、その女子学生を抱いたまま、広い駅構内を斜めに右側の臨海公園出口の方へ硬くて冷たいコンクリート床を転がった。頭がクラクラとした。今、起こっている事のすべてを理解できずにいた。


 駅員が駆け寄って来た。続いて、下り電車から降りてきた人達が、自分たちの周りに近寄って来る。そこへ同じセーラー服の子が慌てた様子で走り込んで来た。

「きお!大丈夫!もうー嫌だ~。どうしよう、きっと夏休みの林間学校に行かれないわ、いいえ、また学校を休むのかしら?中学を卒業できる?」


 悲痛な叫び声をあげた。そのあとから

「大丈夫?」兄弟らしき二人の男たちが覗いた。その男たちを見て

「悟志さん!お兄さん!もうダメだって」女子学生は大きな声を上げた。どうやら知り合いらしい。


「きおったら、びっくりして怪我しちゃったよ。ああ、未来の彼氏だって、突然に触ったらだめだよ!」立て続けに騒いだ。

『この子はきおと言うのか、それにしても、この友達らしき女子は、騒ぎ過ぎだ』

 周囲の騒ぎをよそに、僕のぼんやりした頭はそんなことを考えていた。


 さっきまで、すぐ隣で誕生日の歌を唄いながら、のんびりとランドセルの中身を拾っていた妹の美宇が、無表情な人形のように僕らを見ているのが目に入った。


 息苦しさに胸元を見ると、きおがぴったり密着するように僕にしがみついている。構内のコンクリートの床にぶつけたのか、手や顔に擦り傷があり少し血が出ていた。僕はそれよりも、きおの黒髪の間から微かに見える透明なオレンジの瞳に気を取られた。

 

「家に、電話をしてください」

 きおの友達らしき女子学生は、駅員に手慣れたように電話番号を渡し、駅員が助け起こそうとする手を制止した。

「病院に行かなくちゃ。きお、こっちにおいで」


 きおの腕を掴んで揺さぶり始めた。だが、いくら揺さぶっても僕から離れようとしない。きおを僕から離そうとすればするほど、さらに力がはいる。緊張で全身が石みたいだ。僕も苦しさにひき離そうと、もがくが離れない。

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