封筒から転がり出た刺青つきの白茶けたなにかに意識の全てを吸い込まれたっきりの、完全な沈黙。

 それを一番はじめに破ったのは牧美さんだった。

 彼女は白くて大きな手を容赦なく振りかぶり、奥谷の右頬を打った。暴力に馴れた巨体を持つ奥谷でさえ一歩後ずさるくらいに強烈な平手打ち。私は圧倒されて、殴られてもいないのに奥谷同様一歩後ずさってしまった。

 「あんたって、人を不幸にするために生まれて来たみたいな男ね。」

 彼女の暴力にも暴言にも、奥谷は微塵も抵抗しなかった。ただ、じっとうつむいて、水色の雫に視線を落としていた。ずっと真剣に眺めていればいつかはその皮膚が口を開けて、透さんが託していった言葉を話すようになるとでも思っているみたいに。

 「一緒に来る?」

 苛烈な視線を奥谷から逸らさないまま、いつかと同じ問いを、牧美さんは今度は女の声のまま私に投げかけた。

 私は迷った。まだ幼かった頃、男の声で彼女に問いかけられたときの何倍も迷った。そして、首を横に振った。

 相変わらずの頑固なガキを見て、牧美さんは艶やかな唇で呆れたように笑った。

 「あんたも不幸になるよ。」

 「知ってる。」

 知ってるし、これ以上どうしようもないくらいには、私はもうすでに不幸だ。

 「牧美さんが切り取ったの?」

 「なんで?」

 「だって、自分じゃ手が届かないじゃん。」

 「私じゃないわ。自分でやったんじゃないの。」

 私の瞼の裏に実際に見てきた光景みたいに甦るのは、風呂場の壁にかかった全身鏡に自分の肩甲骨の裏あたりを写し、不自由そうに身を捻りながらせっせと四角く自分の皮膚を切り取る透さんの姿だった。

 「一緒に来る?」

 もう一度、牧美さんは私を誘った。これが最後の問いだと分かっていた。このチャンスを逃したら、牧美さんだけではなく、私の今後の人生でもう二度と誰も、私をここから連れだしてはくれないだろうと。

それでも私はもう一度首を振った。なにが自分をここまで頑なにさせるのか、私自身にも分からなかった。

 赤い唇の両端を微かに吊り上げた牧美さんは、それ以上私を誘わなかった。白いワンピースの裾をひらつかせながら踵を返し、玄関のドアを開けて出て行ってしまった。

残された私と奥谷は、冷え切った玄関の空気の中で、白茶の和紙みたいなそれをじっと眺めた。

 分かっている。皮膚だ。これは透さんの皮膚だ。

 奥谷の視線が、透さんの皮膚から私の顔へゆっくりと移される。そうすることで私の機嫌を損ねることを恐れてでもいるみたいな、ひどく卑屈な動作で。

 その動作にさえひどく腹が立った。

 しゃがめ、と顎で示すと、透さんの皮膚を手のひらに乗せたまま、奥谷は冷え切った玄関タイルに両膝をついた。


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