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 「もも乃さん。」

 と、ようやくこちらを振り向いた奥谷が私に近寄ろうとしたが、私はそれを拒絶した。奥谷を睨みつけたまま嘔吐し、寄るな、と呻いて。昨日の夜からろくなものを食べていないせいで、内臓全体に染みるほど酸っぱい胃酸だけが私の服の表面をたらたらと伝った。

 奥谷は私に向かって伸ばしかけた腕を思い直したように引込めると、それ以上何も言わず、床に散らばっていた衣服を淡々と身に着けて部屋を出て行った。

 「……偽物の茜だねぇ、俺は。」

 シャツの襟をかき寄せながら、透さんは北風よりも寂しい声で呟いた。

 違う、と、その言葉が口にできない私は透さんの肩にしがみついた。透さんの身体は白くてきれいで、性的な匂いはまるでしなかった。女の私相手には、なんのフェロモンも発しない身体。

 「私もだよ。」

 胃酸の酸っぱさのあまり蛇口を捻ったみたいに湧いてくる唾液が、だらしなく私の唇から顎を伝う。

 私もだよ。

 それに続く台詞をうまく言葉にできる気がしなかった。

 私も偽物だよ。雪乃の偽物だよ。全然似てないのに、あの女の顔さえろくに覚えていないのに、それでの同じ血がこの皮膚の下を流れているっていうだけで。でも、ねぇ、そうしたら私ってもう、人っていうより血を詰めた皮袋でしかないんじゃないかな。

 そんなような内容を言いたかったのだけれど、胃はぴくぴくと小動物みたいに痙攣していたし、舌も歯も胃酸で溶け出しそうに軋んでいた。言葉をきちんと組み立てられるだけの余裕なんてどこにもなかったのだ。

それでもやさしくて鋭い透さんは、私の顔を汚す唾液と胃酸を指先で拭ってくれながら、分かっているよと言いたげな眼差しで微笑んでくれた。私はそれだけで心から安心が出来た。口にできない言葉があって、私の中で渦を巻いてどんどん膿を吐き出していくのだけれど、それを透さんは掬い上げて水洗いして、色彩を見極めようとしてくれる。私の好きな人が、そうやって私の中の澱を彼の胸に引き受けてくれようとする。それ以上の安心感があるだろうか。

 「好き。」

 これまで一度も口にしたことのない告白だった。

 透さんは、私の背中に両腕をきつく回して抱きしめてくれた。

 この世の中で、なんの偽物でも代わりでも妥協でもないその人自身を求められたことのある人なんて、きっと何人もいないだろうと思った。

 透さんは私の告白には返事をしてはくれなかった。ただ、私を強く抱きしめたまま数分間を過ごした後、指と指とを絡ませたまま私の手を引いて部屋の中に入り、ぴたりと寄り添ってリビングテーブルの前に腰を下ろした。

 そのままの姿勢で、私と透さんは夜を越した。私たち以外のこの世のすべてのものは消滅してしまったのではないかと思うくらい、静かな静かな夜だった。


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