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一緒に暮らしたくないと私が言うと、奥谷はこの上なく動揺した。
金曜日の晩、奥谷が作ったオムライスを二人で食べている時だった。家の外では霧雨がしとしと降っていて、ごくささやかな雨音が家をすっぽりと包み込んでいた。
奥谷が取り落したスプーンは、オムライスの上に一回着地してケチャップをまき散らした後、喧しい音を響かせながら床に転げた。
そのけたたましい音を訊いてしまったせいか、そこから私の耳は雨音をわずかばかりも聞き取れなくなった。
「この家もあの人のお金も、籍入ってたってことは奥谷のなんでしょ? 私、高校は全寮制のに行くから。奨学金とれるように勉強するから。」
勉強などろくにしたことはなかったが、私の成績はそこそこ良かった。数字に生来強かったのもあって、学年でも上から何番目かの水準ではあった。だからこれから猛勉強すれば、県外の割と有名な女子高の奨学生になんとか滑り込めるのではないかと算段していた。
「家もお金も奥谷が好きにすればいいよ。私、あの人のものはなにもいらない。」
奥谷には、私が言う『あの人のもの』に奥谷自身が含まれていることくらい分かっていたはずだ。曲がりなりにも5年以上ひとつ屋根の下で暮らしてきた。家族になるには、情愛のようなものを育てるには、どうにも弱く短い5年間であったけれど。
やはりどうしても私と父を棄てて出て行った母を許す気にはなれなかったし、なれないならばできるかぎり早くこの家を出て行くべきだろうと思った。
これまで私は他に行く場所のない子供だったけれど、9年間の義務教育を終えれば自分の意志で自分の居場所を決められる。もちろん完璧な大人ではないから限界はあるけれど、せめて寝る場所と起きる場所くらいは。
「どうしてですか。」
生真面目で几帳面なはずの奥谷が、ケチャップまみれで転がるスプーンを拾おうともせず私を見つめていた。
黒い目をしていた。透明に澄み切った白目の真ん中に、真っ黒い瞳がくっきりと沈んでいる。
狂ってる、と思った。狂人か赤ん坊くらいしか持ちえないレベルの純粋さが、その目から私に向けられていた。そしてその『純粋』の後ろにつくなにがしかの単語が私には分からない。『純粋』な疑問、か『純粋』な好意、か『純粋』な憎しみ、か『純粋』な殺意か。
殺されるかもしれないな、と思った。放し飼いにした大型犬に食い殺される間抜けな飼い主みたいに。その想像は自分でも驚くほど生々しく私の胸に広がった。
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