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「もも乃さんは、女みたいな男が好みのようですね。」
昨日の牧美さんの発言より意味不明な言葉だった。
呆れた私は台所を通り抜けて洗面所に向かおうとした。奥谷の戯言には付き合ってられない。あんたが好きなのは私じゃなくて私の母親だろうと言いたかったが、口を開くのさえ億劫だった。
けれどすれ違いざまに、奥谷は私の腕を掴んだ。私は心底驚いて、ぽかんとした顔で足を止めた。奥谷が意識のある状態の私の身体に許可なく触れたのはそれがはじめてだった。黒い鎖の刺青が巻き付いた、人体模型みたいにきっちり筋肉が張り付いた手首。
「あんた、私に触っていいと思ってんの?」
純粋な疑問として問うと、奥谷はびくりと身体を震わせた。そして一瞬の躊躇いの後、私の右腕を開放した。じくりと、骨に染みるような痛みだけが二の腕に残る。
「犬のくせに。」
私はそう奥谷を罵ると、相手の表情を確かめることさえせずに当初の目的通り洗面所に顔を洗いに行った。ぱしゃぱしゃと冷たい水で顔を洗い、奥谷の手によって磨き上げられた鏡を覗き込む。
そこに映る少しむくんだ子供の顔には、わずかの恐怖も浮かんではいなかった。私はそのことに心からの安堵を覚える。
奥谷がその気になれば、私のことなどどうにでもできる。いくら私の所有物だと言ったって、奥谷は暴力を生業にしていたタイプの男だ。私がどう抵抗したって勝ち目はない。そのことを理解してなお私は奥谷を恐れていないということ。その不健全さがたまらない快感だった。あの厚く大きな身体を持つ男を、私の言いなりにできるということ。茜を犬にしていた男を、私は犬にできるということ。
鏡の中の白い顔は、ちっとも美しくはない。茜の可憐さもなければ牧美さんの華やかさもなく、奥谷の逞しさもない。当然私は私のことがちっとも好きではない。顔かたちだけではなく、全てが。とりわけ、奥谷と茜と牧美さんの関係に踏み込む資格を奪う年齢と性別が。
だから、強く思う。
あの男は私の犬だ。あの犬に縋った茜も、茜のためにあんなに泣いた牧美さんも、私よりも下だ。ずっと、ずっと下だ。
それからしばらくして、日本では性別適合手術を受けて戸籍を変更しなければ同性とは結婚ができないのだと知って、私はどうしようもなく打ちのめされた。
結婚するくらいには仲が良かった、などと牧美さんは言ったがそれどころではない。ただお互いの口約束でしかない結婚を一生の支えにできるくらいには、牧美さんと茜は仲が良かったのだ。
もう一緒に暮らしたくない、と私が奥谷に言ったのは、その事実を知った日の晩だった。
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