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「茜があなたよりもっと年下だった頃に、少しだけ一緒に暮らしたことがあるの。」
牧美さんはほんの一瞬だけ言葉に詰まり、笑った形のままの唇を震わせた。
私はずっと、彼女の唇の艶を目で追っていた。私が大人になって、高価なブランド品の口紅やグロスを使うようになったって、この艶は絶対に手には入らないのだろうと思って。
「茜は行くところがなくって、私もね、一人だったから。あの子はすぐに出て行ってしまったから本当に少しの間だけ……。」
そこから彼女が言葉を紡いでいる間中、私はその話など聞いていないふりをした。悔しかったのだ。たまらなく。だから、あからさますぎるほど彼女から目をそらし、窓の外など眺めて。
茜にとって私はずっとずっと奥谷の娘でしかなかった。
二人で暮らし始めたあの冬の日から単なる私の所有物に成り下がったはずの男の、そのまた付属物としか見られていなかった。だからこうやって人前でぼろぼろと泣くことが許されるほどの関係性は、私と茜との間には築かれていない。部屋にこもって布団を被り、一人で泣くのが関の山だ。
「私はその頃の茜のことは、なにも知らないのよ。私もまだ男の格好だったし、茜は子供だった。結婚する前もした後も、あの頃のことは口に出さなかったわ。なかったことにしていたの、お互い。五年前に一緒に暮らした誰かは、今一緒に暮らしている相手とは全然違うひとだって。」
そうでもしないと、やっていけなかった。
牧美さんはそう言ってまた涙を流す。本当は話さないといけないことがたくさんあったはずなのに、などと嘆きながら。底なしの泉みたいによく泣く人だと、私は心底感心してしまう。
「生きていると悲しいことがたくさんあるじゃない。」
話を聞いていないふりを継続する私に構うことなく言葉を接ぐ牧美さんも、奥谷や茜ととてもよく似ていた。同じ顔と目をしていた。
彼女が他の二人と違ったのは、本質的に私を子ども扱いしなかったところだ。悲しいことがたくさんあるのよ、ではなく、悲しいことがたくさんあるじゃない、と彼女は言ったのだ。
奥谷も茜も私と近すぎて、私を庇護しなくてはならない立場だったからこそ、そうは言えなかったのかもしれない。自分の庇護下にある子供が悲しい目にあっていると思いたい大人などこの世にいないだろうから。
けれどとにかくその一言で、私は彼女を嫌いにはなれないと観念した。妬ましかったし好きではなかった。それでも嫌いにはなれないと。
「分からない。」
そう言った私は、立ち上がって牧美さんの胸ぐらをつかんだ。指の間からさらさらと零れ落ちていきそうなくらい、上質な布の質感。
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