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「結婚してたって茜は私のところに戻ってこなかったのに。……よっぽど居心地がよかったのね、ここは。」
牧美さんの話し方には独特の抑揚があって、決して女性的ではない声音が、なぜだか女性のそれに聞こえた。
「牧美のところに帰るって、聞いたことある?」
濡れた頬を手のひらで包むようにしながら、牧美さんは静かに苦笑した。
「行く、だったかな。」
奥谷の返事もやはり静かだった。感情の色を極力込めないように努めてでもいるみたいに。
「ここへは?」
牧美さんの二つ目の問いには、奥谷は黙って首を横に振っただけだった。
言ってたよ、帰るって。
私はそう声を上げてもよかったはずだ。だって茜はいつも私に、帰ろう、と言った。コンビニでアイスを買った後や、傘を忘れた私を学校まで迎えに来てくれたときや、奥谷のお使いでスーパーに行ったときや、とにかくいつだって茜はごく普通に、ももちゃん帰ろう、と言った。
けれど私は牧美さんに対して一言の言葉も発せなかった。だって私は子どもだから。子ども相手だったからこそ茜は、帰ろう、と言ったのかもしれない。私を連れ帰るために、必要に駆られて。
「紅茶でも、淹れようか。」
牧美さんの止まらない涙に耐えかねたように、奥谷は席を立った。
子どもの私にはそれを機に自室にこもる権利が与えられていたはずだ。実際奥谷は、私がそうすると思って席を離れたのだろう。けれど私は階段を上りはしなかった。
「……茜とは、」
そこからなにを尋ねたいのか、自分の中でもまだ固まってはいなかった。ただ、茜のことをもっと知りたかった。なにをどう知ったところで、もう死んでしまった彼にこれ以上近づけるわけではないけれど。
牧美さんは、喋るはずのない人形か動物が口をきくのを目撃したときみたいな目で私を見た。そして、唐突に笑った。大輪の花が開くような、ぱっと顔中に広がる笑み。
多分牧美さんには、私が茜に恋をしていたことが分かったのだと思う。そういう種類の笑みだった。子どもの恋情を微笑ましげに見守るみたいな。
「結婚していたの。茜の18の誕生日に籍を入れて、一月しないで別れたけれど。」
「なぜ?」
「どっちのこと?」
「両方。」
「結婚は、私のため。今でもどうしようもないくらい落ち込んだ日には、自分には夫がいたことがあるんだって、それだけ支えにしてるわよ。」
「離婚は?」
「茜のため。茜は結局一つの場所に居られない人だし、私のことを好きな訳じゃなかったから。」
「好きじゃないなら、なんで結婚なんてするの。」
「さっき言ったじゃない。私のため。」
「でも、好きじゃないなら……、」
「好きじゃないわよ。茜には他に好きな人がいたから。でもね、結婚くらいしてもいいくらいには、仲は良かったのよ。」
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