5
「茜、」
その時自分がなにを言おうとしたのか、今でも私には分からない。
親はいない。祖父母もいない。それでも私は奥谷の庇護下にいた。決して望んだ暮らしではないが、茜の『義務教育後』に比べれば、随分と幸福な暮らしぶりだったはずだ。
その私がなにを言うつもりだったのか。
茜は色素の薄い両目で私を見ていた。じっと、私の細胞の一つ一つまで見透かそうとするみたいに。
アイスティー色の目を見返すばかりで言葉の出てこない私は、ころんと寝返りを打って茜に身を寄せた。さっき茜が私の側に寄って来ていたこともあって、2人の距離はゼロになる。私の身体の右半分は、茜の身体の左半分に乗り上げていた。仰向けの茜と、茜の側を向いた私。
犬が仲間にするみたいに顔を寄せてみると、茜はくすぐったそうに笑ってくしゃりと私の髪を撫でた。そして、やっぱり犬がするみたいにぺろりと重ねた唇は、冷たく濡れてスイカバーの味がした。
「茜。」
今度茜を呼んだのは、私ではなく奥谷だった。台所のドアを開けてこっちを睨みつける奥谷は、明らかに本気でキレていた。
これまで一度も見たことがない、堅気ではない匂いをまき散らす奥谷の姿に、私は本能的に委縮した。いつだって奥谷は穏やかで遠慮がちだったから、強気に主導権を握るのは私の方だったのに。
半ば無意識の内に身を起こして奥谷から距離を置こうとする私に対して、茜は寝転がったままへらりと笑った。
「怒ってますね。」
「当たり前だろう。」
「そっすかね。」
「もも乃さんは14歳だぞ。」
「あー、怒ってる。」
「なんでお前、嬉しそうなんだ?」
「だって奥谷さん、がちで怒ってるときしか俺のこと使わなかったでしょ。優しいから。」
茜が口にした『優しい』は、明らかに揶揄だった。
奥谷が全身から発散させていた怒りが一気に霧散するのを肌で感じた私は、内心でひどく驚いていた。その場の空気を支配するポジションは、あっという間に奥谷から茜に代わっていたのだ。当の茜は怒りの気配などまるで漂わせもせず、寝そべったまま唇の端っこにアイスの棒を引っかけてさえいるのに。
「あの頃、俺いくつでしたっけ?」
「……12。」
奥谷が喉の奥からかすかすになった声を辛うじて絞り出すと、茜は唇の端を均等に吊り上げて見せた。私は数秒間、その表情が笑顔と呼ばれるべきものだということに気が付けずに呆けていた。
「12から2年くらいかな、散々使って、挙句に罪悪感だか何だかで通報して鑑別所送りにして……。今でも、いいことしたって思ってます?」
「思ってない。あの頃から、一回も思ってはいない。」
今度は奥谷が委縮して茜から逃げた。まだ言葉が空気中を漂っているうちに、パタン、と台所のドアが閉まる。それはあまりにも奥谷らしくないふるまいだった。会話をこんなふうに途中で投げ出すなんて。
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