3
犬という単語が何を指すのか、私にはその時さっぱり分からなかった。ただ、茜が奥谷に傷つけられたのだということだけを把握したのだ。
「茜。」
大急ぎで台所に飛び込んだ私は、茜の手を引いて立ち上がらせ、階段を上って自室に彼を連れ込んだ。奥谷も茜も虚を突かれたらしく、なにも言わなかったしひとかけらの抵抗も見せなかった。
「大丈夫?」
部屋のドアを閉め、ようやく顔を覗き込むと、茜は泣きそうに顔を歪め、それでも笑った。
「大丈夫。ごめん、びっくりしたよね。」
「まぁね。」
三年前に奥谷に与えられた、子ども部屋にしては広すぎる12畳。畳敷きの広い部屋の真ん中に座り込んで膝を抱える茜は、急に私の側の人間に見えてきた。奥谷側ではなく。
しかし私はもう、茜の背中に色鮮やかな天女の刺青が入っていることを知ってしまっている。
「喧嘩?」
茜の隣に腰を下ろし、違うのを承知で聞いてみると、茜は曖昧に頷く。
「ちょっとね。大したことじゃないんだけど。」
「ねぇ」
「ん?」
「義務教育の後の話、してたんでしょ。」
「ん。もも乃ちゃんは賢いな。」
「誰でも分かるよ。奥谷、昼間からちょっとおかしかった。」
「そうなの?」
「顔には出ないけどね。なんとなく硬いっていうか。」
「なんかもう、家族だねぇ。」
私は茜の感心したような相槌は聞こえないふりして、膝を抱える彼の指をつんつん突っついて先を促した。
「義務教育の後、なにしてたの?」
私の指をきゅっと捕まえ、うーん、と唸った茜は、言えない、と困ったように眉を寄せた。
「もも乃ちゃんに言えないようなことをしてたよ。」
なんの答えにもなってない、と思いはしたが、さらに突っ込んだことを聞く気にはなれなかった。
「今日、もうここで寝る? 毛布ならあるよ。」
諦めて立ち上がり、押入れから布団を出そうとすると、茜は私の腰に長い腕を巻きつけるようにして動きを止めさせた。
「だめ。奥谷さんに殺されちゃう。」
「なんで?」
「なんでも。」
「いやだよ。奥谷も茜も、私のこと大人みたいにするのやめて。」
「だって、いつまでも子どものままではいられないじゃん。」
「それでも、私はまだ大人じゃないよ。」
「俺がもも乃ちゃんくらいの時は、もう一人で生きてたよ。大人では、なかったけど。」
おやすみもも乃ちゃん、と私の髪を撫でて、茜はひっそりとした足取りで階段を下りて行った。随分寂しげな一人分の足音は、階段を下り終わったところで二人分に増えた。奥谷は階段の下で茜を待っていたのだろう。
そういうところが嫌いだ。
私は歯を磨くのも忘れて布団にもぐり込んだ。
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