第26話 捧日の思い

「今宵は月が見えない」


 ここは西方角に位置する李黄りおう家の別宅。夜は月明かりが見えない静寂な朔月の夜。星は頼りなく瞬く。李黄家の護衛がいるものの捧日もいない中、天籟は眠れそうになかった。


 混乱して頭が整理できない。まだ悪夢が続いているのか。小さい頃から知っている来儀兄上。

 陛下は早く帝位を譲りたいと、そして退位してから父として息子に接したいと娟々えんえんから聞いていたのに―。


 紫微星城は五大世家の領地に三百六十度、ぐるりと囲まれ守られている。柳家は東南、李黄家は西北。紅家は南、白家は南西、紫家は北西だ。


 二階の窓から見下ろすと、松明を持った兵士が李黄家の門に十人以上張り付いていて、物々しい雰囲気に街の人々も噂する。


 コンコン

 侍女を引きつれやってきたのは李黄家の家紋である黄色い牡丹の花の衣を羽織った、娟々によく似た若い女人だった。


「天籟殿下、当主の娟々はしばらく紫微星城におります。次帝を決める会議が控えていて外出許可が下りないそうです。李黄家当主の娘であるわたくし明々めいめいが代理を務めさせていただきます。今日からこの部屋でお休みください」


「はい――。しかし、李黄家に迷惑をかけたくはない。わたしひとりの命と引き換えに平和が保たれるのであれば、いつでもこの首を差し出す覚悟です」


「天籟殿下、わたくしにはまだわからないことだらけです。どのようにしていくのが最善か、しばらく見極めたいと思います。それまで李黄家にいてください」

「明々殿、感謝します」

 天籟は拱手してこうべを垂れる。


 この命、いつでも差し出す覚悟はある。そこに嘘はない。だが、月鈴ユーリン——。捧日に頼んだが、城からうまく脱出できただろうか……。このような状況では月鈴の夢を叶えられそうにない……すまない。



 ***



 紫微星城の騒動にまぎれ柳家に戻った捧日は支度をしていた。


「どうしてあなたはわたくしと離縁して柳家を出ようとするの?」


 捧日の妻である紫・静麗ジンリーが声をかける。捧日は上級貴族で妻を娶り、子どももいた。


 燿国の宦官は、科挙試験に受かった後宮ハレムで働く去勢した宮廷に仕える男性の官吏のことである。官吏が〈帝の女〉に手を出さないようにするため、いつの頃からか、そうなった。捧日は代々、皇家に仕える柳家で、上級貴族の妻がいて去勢は免れることができる〈特別宦官〉だった。


「離縁のことですか? 天籟殿下にお仕えしているものですから。柳家も、あなたの親族である家を巻き込みたくはない。これから李黄家に行くつもりです」

「もうすぐ粛清されてしまうかもしれない皇子の側近なんてやめてもいいのよ?」

「……」

 捧日は黙々と準備をする。


「あなた何とか言ってよ!」

「申し訳ないと思っております……」

「答えて! どうして次期帝ではない皇子のためにそこまでするのよ。寝返ればいいだけじゃない」

静麗ジンリー、わたしは皇家の懇意で柳家の養子になりました。幼い頃は宮廷内の下僕だった。だから日常的に高官に折檻され、死にかけているところを助けていただきました。それが天籟殿下です」


「……!」

「命の恩人である天籟殿下のためならこの命惜しくもない。静麗、心配してくれているのですね。わたし個人のわがままをお許しください」


「息子のためにも必ず戻ってきてちょうだい」

「もちろん」

「あなたは―……」

「はい?」


「天籟殿下よりも、わたくしに心を向けてくださらないのですね」

「……」

 静麗は躊躇いながらも思い切って捧日を見るが、捧日は思わず目を伏せた。

「静麗、結婚前にも申し上げたはずです。天籟殿下が何よりも最優先だと――」

「ええ、分かっているわ。ごめんなさい。変なことを言ってしまって」


 捧日は静麗に微笑む。

「静麗、わたしたちは、確かに政略結婚でした。でもお互い思いやりを持ち穏やかに過ごしてきたではないですか」

「ええ、そうね。あなたは優しいわ。あまり家にいないけれど……」


 扉越しに男の声がした。

「捧日さま、準備が整いました」

 使用人が用意した馬車が待機している。すると捧日は顔つきが変わった。


「すみません、時間がないので行きます。わたしに何かあったとしても息子をよろしく頼みますよ」

「はい」


 静麗、結婚は本意じゃなかったが、お互い断ることも許されない身分だ。だからこそ思う、天籟さまには本当に心を許せる方と幸せになってほしいと――。


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