壊れた世界とシュレディンガーの猫の手と KAC20229

斜偲泳(ななしの えい)

第1話

「シュレディンガーの猫の手ですか?」


 牧信二まき しんじ黒瓜霊子くろうり れいこの言葉を繰り返した。


「そうよ、信二君。それが今回の発明品。お金になるにはもう少し時間がかかりそうなの。これを貸してあげるから、借りたお金を返すのはもう少し待ってもらえないかしら」


 気だるげに言うと、霊子は腰まで伸びた黒髪をサッとかき上げた。

 すらりとした、黒猫みたいにミステリアスな美女である。


 彼女は大学の頃の先輩で、信二と同じオカルト研究会に所属していた。卒業後は神秘応用学なる怪しい学問に傾倒し、オカルトチックな道具を開発している。

 信二は度々、彼女に研究資金を貸していた。実の所、オカルトや神秘応用学なるものには興味がない。信二は霊子に惚れていて、全ては彼女に会う口実を作る為だった。

 そういうわけなので、貸した金を取り立てに来たのだが、そこまで本気ではなかった。


「それはいいですけど、なんの役に立つんですか、これ?」

「望んだ願いをなんだって叶えてくれるわ」

「……はい?」

「信二君は猿の手という呪物を知っているかしら」

「そりゃまぁ……。意地悪な魔法のランプみたいな奴ですよね? 三つ願いを叶えてくれる代わりに、ものすごく不幸になるみたいな」

「そんな感じね。使用者の望まない形で願いを叶える呪物よ。お金が欲しいと願ったら、大事な人が死んで保険金が入るとか。猿なんかを使うのが悪いんじゃないかと思って、猫の手で作ってみたのよ」


 ……そんな安直な。


「信二君。あなた今、私の事を小馬鹿にしたでしょう」

「そ、そんなわけないじゃないですかいやだなーもうアハハハハ……」


 信二は引き攣った作り笑いで誤魔化した。

 拗ねた顔も可愛いなぁ、なんて思いつつ。


「ちゃんと理由があるの。言ったでしょ、シュレディンガーの猫の手だって。シュレディンガーの猫は知ってるかしら」

「なんか箱の中で生きてるんだか死んでるんだか分からない猫の話ですよね」

「そう。量子力学の確立解釈における思考実験の一つで、特殊な環境下に置かれた猫は生と死、両方の状態が重なって存在するとされているわ。でも、実際の生き物の状態は生と死の単純な二つで表せるわけではないでしょう? ものすごく元気に生きているかもしれないし、苦しみながら死にかけているかもしれない。突然変異で犬になっているかもしれないし、悟りを開いて猫神様になっている可能性だってあり得るわ」

「はぁ、そうかもしれませんね」


 これっぽっちもそんな風には思えなかったが、とりあえず言っておいた。

 そんな内心を読んだのだろう。霊子はむぅっと子供みたいに頬を膨らませ、形の良い眉を寄せてずいっと顔を近づけた。


「つまり、シュレディンガーの猫は本質的に、無限の可能性を内包した状態にあるという事なのよ。願いを叶える呪物の素材にするには、うってつけだと思わない?」

「そ、そうですね! その通りだと思います!」


 急接近した霊子の顔に、信二は思わず唾を飲み込んだ。


「もう。絶対わかってないでしょう。すごく大変だったのよ。シュレディンガーの猫を再現した上で、その手を猿の手と同質の呪物に加工するのは」

「猫の手、切っちゃったんですか!?」


 言ってから、信二は慌てて口を押さえた。

 これでは責めているみたいになってしまう。


「まさか。そんな残酷な事をするわけないでしょう? シュレディンガーの猫が無限可能性を内包した存在であるのなら、そもそも箱の中に猫を入れる必要はないの。なにが入っているか分からない箱の中には、シュレディンガーの猫がいるかもしれない。そしてそれは、最初から手しかない猫かもしれないわ。私はそれを霊的に取り出しただけよ。言うほど簡単ではなかったけど」

「でしょうね」


 信二には想像も出来ない話である。


「で、これがそのシュレディンガーの猫の手よ」


 霊子が白衣のポケットから取り出したのは、手のひらサイズの黒い棺みたいな小箱がぶら下がった首飾りだった。


「この箱の中にシュレディンガーの猫の手が入ってるんですか?」

「入っているかもしれないし、入っていないかもしれないわね」

「はぁ……」

「使い方は簡単よ。誰もいない密室でシュレディンガーの猫の手にお願いするだけ。そうすればシュレディンガーの猫の手に内包された無限可能性を収束させて、望む結果を引き寄せる事が出来るわ。我思う故に我あり。箱の中の猫だけが己の生死を知っている。そういう仕組みね」

「なるほど……」


 さっぱり分からないが、とりあえず信二は受け取っておいた。


 †


「……えーと、ごほん。く、黒瓜先輩と、せ、せ、セックスしたいです!」


 マンションに戻ると、とりあえず信二は試してみた。別に信じたわけではないが、試すのはタダである。こんなお願いはいけないと思いつつ、誘惑には勝てなかったのである。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴って信二の心臓が飛び跳ねた。表に出ると、妙にしおらしくなった霊子がいて、君が好きだと告白された。そしてそのままベッドイン。


「マジで? 夢じゃない?」


 一晩中楽しんだ後、幸せそうに寝息をたてる裸の霊子の横で呟いた。


 頬を抓っても霊子のおっぱいを触っても夢から覚める気配はない。

 シュレディンガーの猫の手は本物だ。


 そうと分かれば話は早い。信二は欲望の赴くままにお願いをしまくった。宝くじや競馬で大金を稼ぎ、さっさと会社を辞めた。霊子と付き合い、結婚して、女の子を二人産ませた。霊子の唯一の欠点である神秘応用学なるお遊びは忘れて貰った。結婚生活が続くと予想外の欠点が目についたが、シュレディンガーの猫の手にかかれば矯正するのは簡単だ。娘の反抗期もそれで解決した。気に入らない彼氏には消えて貰い、とにかく何でも思うがままだ。程なくして、信二は霊子に飽きてしまい、二人の娘も愛せなくなってしまった。現実味がないと言うか、生きている人間という感じがしないのである。


 当然だ。気に入らない所があれば一声で変えてしまえる相手である。そんな存在を生身の人間だと思うのは難しい。家族だけでなく、世の中の全ての人間がそうだった。人間だけではない。なにもかも、この世界自体が作り物のように思えてならない。


 まるで、チートモードでゲームを遊んでいるみたいだ。どんな敵も一撃で倒せて、どんな街にも一瞬でワープ出来て、どんなアイテムも好きなだけ買える。面白いのは最初だけだ。むしろ、どれだけ面白いゲームだってこんな遊び方をしたらクソゲーになってしまう。


 信二はどんどんおかしくなり、戯れに人を殺したりもした。一言願うだけでいい。実際に手を汚したって、証拠を消すのは簡単だ。戦争や天災を起こしたりもした。宇宙人を呼んだり、漫画みたいな世界にした事もある。なにをやった所で虚しいだけだ。


 この世界に生きている人間は自分だけなんだ。

 漠然と、信二はそんな風に思うようになった。

 なんでこんな事になってしまったんだろう。

 こんなはずじゃなかったのに。

 僕は黒瓜先輩の事を心から愛していたはずなのに。


 つまらないズルをして、この世の中のあらゆる美しい物、尊い物、価値ある物を台無しにしてしまった。


 そして残ったのは、何の価値もない最低のクズ野郎だけだ。


 自分自身を真っ当な人間に変えるよう願えばいいのかもしれない。けれど、そんな勇気もなかった。今ならわかる。他人を変えるという事は、本質的にはその人間を抹殺する事と同じである。


 自分はこの手で黒瓜先輩を殺したんだ。何度も何度も。彼女との間に出来た子供も。そして、女の子を望んだ事で生まれたかもしれない男の子だって殺したんだ。この世界も殺した。自分自身の可能性すらも殺してしまったのだ。


 僕はなんて馬鹿だったのだろう……。

 人のいなくなった荒野に立つくして、信二は己の愚かさを呪った。

 戻りたい。

 叶う事なら、あの瞬間に。

 そこでハッとする。

 叶えればいいじゃないか!

 こいつは、このクソッタレは、どんな願いだって叶えてくれるんだから!


「シュレディンガーの猫の手よ! 僕をあの日に戻してくれ!」


 †


「その様子だと、随分派手に楽しんだみたいね」


 シュレディンガーの猫の手を返しに来た信二を見て、霊子はからかうような笑みを浮かべた。

 信二は泣きそうだった。謝りたい。そして今一度、本物の黒瓜先輩を抱きしめたかった。

 そんな事をする資格はもうないのだが。


「……えぇ、まぁ。ちょっとやりすぎちゃいました」

「気にする事はないわ。万能の願望成就機を手にすれば、誰だってやり過ぎるでしょうし」

「……先輩。これは、危険ですよ。冗談じゃなく、この世界を全宇宙ごと滅ぼしかねません。こんな物、世に出したらいけませんよ」

「心配ないわ。どのみちこれは限られた一部の人間の手にしか渡らないもの」

「そういう問題じゃありませんよ! 僕が消えろと願ったら、先輩はなにも出来ずに消えちゃうんですよ!」

「君の認識という箱の中ではね」

「え?」

「本当に世界を変えられるような代物じゃないの。いえ、ある意味では変えているのだけど。あくまでも、これはシュレディンガーの猫の力を応用して、箱の中に仮初の可能性を収束させるだけの呪物よ。望みの幻を見ているようなものね。重ね合わせの可能性は、どこまで行っても収束する事はない。だからこそ好き勝手できるし、箱の外には影響しない。箱の中で猫が犬だと騒ぐのは勝手だけど、箱を開ければ猫は猫だし、夢はいつか覚めるものだわ」

「そうなんですか……」


 信二は無性にホッとした。


 そういうわけで、霊子の発明したシュレディンガーの猫の手は怪しい裏社会に流通する事に……はならなかった。


 猫は気まぐれな生き物である。

 いつの間にか、箱の中から逃げてしまうという欠陥が判明したのである。


「うぅ……こんなはずじゃなかったのに! ねぇ信二君。悪いんだけど、またお金貸して貰えないかしら……」

「またですか? まぁ、先輩のお願いなら断るわけにはいきませんけど」


 言葉とは裏腹に、信二の顔は幸せそうだった。

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