第20話 灰色の勇者
次の瞬間起こった出来事は、半ば目を閉じかけていたララも、後ろで顔を真っ赤にしているキリアも、ハンマーを振り下ろしかけていたガルシオも、誰もが理解できなかった。
筋骨たくましい体躯がふっとび、路地の壁に背中から強く叩きつけられる。手からすぽんと抜けたハンマーはくるくると旋回し、ララが叩き潰されるのを興奮して待っていたキリアの足もとに激突、地響きを立てて石畳に大穴をあけた。
それらはなんの前触れもなく、唐突で、一陣の風のように一瞬だった。
あっけにとられるララの眼前に、すたっと人影が降り立つ。それが一体何者なのか、何しろ背を向けているものだから、ララにはまったくわからなかった。
「あ、……あ」
キリアは目玉を剥き、口をあんぐりと開けて言葉にならない声を漏らしている。正面に立つ彼女にも、それが誰なのかわからないようだ。それもそうだろう、目の前の人物は灰色のレインコートを身にまとい、深々とフードを被っているのだから。
――灰色の、レインコート?
ララの記憶がフラッシュバックする。少し前、警備隊本部で嘘の証言をした……
『わかりません。灰色のレインコートを着て、フードを深々とかぶった人で……男性か女性かもわかりません。ともかく、その人が巨鳥に強烈な蹴りをくらわせて、ノックダウンさせたんです』
なにが、どうなっているのか、さっぱりわからない。全部、口からでまかせだったのに。
レインコートの人物がこちらを振り向く。肝心の顔はやはりフードの影に隠れていて、かろうじて口元だけが見えていた。
やがて、その右腕がすっと動いて、ララの方へ差し出された。指先はコートの袖に覆われている。ララはおずおずと手を伸ばし、袖の上に重ねた。ぎゅっと握り返される。なんだか、ふわりと柔らかな感触だった。
――あれ?
ララは思わず袖口を凝視する。雨水をはじく、つるつるとした素材。袖口にあしらわれた、特徴的な刺繍。赤い糸で幾何学的な線を組み合わせた異国風のものだ。
はっとしたように目の前の人物を見上げた。ララより少し背が高い。だが、袖の下の、ふわふわと柔らかな感触は……そして、フードから少し見える、白くやわらかな顎の線……
「あなたは……」
言いかけたところで、「ま、待ちなさいよ!」とキンキン声が響き渡った。
いつの間にか、キリアが短剣を構えていた。ビリビリ、目にするだけ痺れそうなほどに電流が走っているのが見える。雷の魔導石が使われているのだ。警備隊の支給品だろうか。
「あんた、だれよ! まさかそいつの知り合いなの? 言っとくけど、あたしはそいつに借りがあんのよ、邪魔しようってんなら、あんただって……!」
言い終えるか終えないかのうちに、レインコートの人物がすっと顔を上げる。わめくキリアの方へ、片腕をまっすぐ静かに突き出した。
口元が、ゆっくりと動く。
「去、レ」
奇妙な節回しだった。風が通り抜けたかのように涼やかな声だが、口調はどこかたどたどしい。キリアも違和感に気づいたようで、怪訝そうに眉をひそめていた。
謎の人物はもう一度、「去レ」と繰り返した。声はわずかに凄みを増している。キリアの脚が震える。
「な、なによ……!」短剣を握りなおし、ふたりに向かって振りかざす。「警備隊なめてんじゃないわよこの野郎!」
その瞬間、レインコートの袖の中から無数の黒い影が飛び出し、キリアの剣を吹き飛ばした。からんからん、と短剣が転がる。キリアの手に、腕に、黒いものがいくつも突き刺さっている。
「な、に、これ……」
ララは驚愕のあまり、ただただ目を見開いていた。飛んだものは黒い羽根だった。矢羽根だ。こんな芸当が普通の人間にできるはずがない。鳥人の兵士が自らの羽根を犠牲に似たような技を使うというが、しかし、目の前の人物は、嘴を持っていない……
キリアは血走った目でじりじりと後退した。肌に流れる血を抑えつつ、短剣を構えなおす。――灰色のレインコートが動いた。ほんの瞬きの間に、キリアの体は硬い壁に押しつけられ、喉元を抑えられていた。
「マ ダ、動ク、か」
たどたどしい声には、呆れと怒りが混じっていた。
「ララ、に、手 出スナ。殺ス」
――地の果てまでも追いかけて、おまえを殺す。
「ひ、ヒィッ……」
魂を絞られたようなか細い悲鳴。キリアの口端には泡が浮いていた。あまりの光景に、ララもようやく呪縛が解かれたように頭が回りだし、謎の人物を止めようと一歩踏み出した。
その時、路地の前方からざわざわと人の動く気配がしているのに気がついた。奥の騒ぎに気づいた人々が通報でもしたのか。謎の人物が顔を上げ、小さく舌打ちをした。
立ち上がり、「ラ、ラ」とたどたどしく、呼びかける。「走レ」
言葉を返す間もなく、ぐいと腕を引っ張られる。ララは導かれるままに走っていた。路地の出口に近づくにつれ、光が差し込み、眼前のレインコートがよりはっきりと見える。その後ろ姿と、黒い羽根、さきほどフードから覗き見えた白い顎と口元が、ララのよく知るものの姿に重なっていく。
「待って……待って!」ララは息も絶え絶えに叫んだ。「あなた、もしかして……」
だが人物は答えないまま、ふたり同時に街道へ出てしまう。思った通り、出口には十数名ほど人だかりができていた。突然路地から飛び出してきたふたりの姿に驚き戸惑う声が上がるなか、人々を蹴倒す勢いでレインコートの人物は走り抜けていく。石畳の馬車道を通り抜け、細い水路に浮かぶゴンドラを踏み越えて、やがて魔動車を停め置いていた広場へたどり着いた。
「乗レ!」
奇妙な節回しで、ララを促す。「早ク」
何が何だかわからないが、ともかく従うほかなかった。急いで御者台に乗り込む。レインコートの人物も隣に滑り込んだ。
具体的な指示などなかったが、ララはアクセルを踏んでいた。車は発進し、馬車道へ出ていく。隣から目的地への指示は出ない。ララは謎の人物の顔色をちらりと窺いつつ、フードで見えないことにあきらめを覚えつつ……気の赴くままに車を走らせた。その間も、ララの頭のなかは混乱につぐ混乱で騒然としていた。
しばらく、互いに無言だった。カラフルなテラス、ブティック、観光客向けの商店街……様々な施設が通り過ぎていき、やがて、眼前に青々とした運河が開けた。周囲を城壁にぐるりと囲まれている王都に閉鎖感を与えないよう、王都が施した観光客向けの工夫だった。おかげで開けた空と運河が見渡せるようになり、景観がよくなったとたちまち評判になったのだ。
ララたちがたどり着いたのは、まさに王都の端の端。運河のほとりは、海でもないのにビーチのような白浜が広がっていて、カップルや家族連れの姿がちらほらと見えた。
「……どこまで、行けばいいんですか」
ララは隣を見ないようにして、たずねた。
「わかラ、ナイ」
声は相変わらず片言だ。だが、ララにはもう、わかっていた。
白浜の脇に、車を停める。
「あなた、……エル、ですか?」
レインコートの袖がすっと動いた。頭に深くかぶったフードの裾を持ち、ゆっくりと後ろへ下ろしていく。するり、肩に落ちたフードの下にあったのは、透き通るような肌を持つ、美しい少年の顔だった。
ララは息を呑んだ。
声という声が、感想という感想が、すべて喉の奥でつっかかって出てこない。
こちらを見つめる両の眼の、金雲母を思わせる瞳のまばゆさ……それをふちどる黒々した睫は優雅に長く……細い鼻梁に柔らかそうな頬……だが、わずかにへの字になった唇は、ララの知る面影を残してくれている。
「エル、……なんですね?」
未だ信じがたくて、再度たしかめる。少年は返事の代わりに、瞬きをひとつしてみせた。
「どうして……その姿は……だって、あなた、こんな、小さな鳥で……」
エルは、だまって胸元に手を入れた。レインコートの襟くびから、銀色に光る鎖が引っ張り出される。その先端の金具に取りつけられていた結晶が、無い。
「魔導石は……? わたしのあげた魔導石はどうしたんですか?」
「呑み、こんダ」エルが自分の腹をなでる。
「えっ?」
「呑んダ」
「呑ん――ええぇ! どうして! まだ、お腹にあるんですか⁉」
蒼白な顔で迫る。「どうしてそんな! 今すぐ吐き出して! 吐き出してください!」
「やメロ!」エルが慌ててララを押しのける。「吐ケバ、俺ハ、元に、戻ル」
言葉を失った。言われた意味を考えていると、視界の隅で、日傘を差した獣人の貴婦人と、護衛らしき冒険者が砂浜沿いを歩いているのが見えた。エルもそれに気づいたらしく、首をすくめてフードを被りなおす。
「ともかく、一度部屋に戻ってください」ララがうながした。「ここで、あなたの顔を晒しているのは危険ですから」
あれからキリアはどうしているのか……警備隊に通報し、ララと見知らぬ乱入者のことで、あることないこと報告していたらどうしよう。彼女はララを恨んでいる。勝手にふたりとも犯罪者に仕立て上げられている可能性はじゅうぶんにある。
エルにもララの不安が伝わったのか、彼はうなずいた。
「ララ、街 デロ。――買イ物、マダ、デモ」
そう言い置いて、御者台から降りる。彼が後ろの部屋へ入っていくのを見届けてから、ララはハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
できるだけ中央通りから遠くなる道を選びながら、城門へ引き返していく。衣類の補充、モンスター忌避剤、結晶の納品……やりたいことはたくさんあったが、ともかく今は、この街から姿を消すことが最優先だった。
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