第14話 油断大敵

 嵐が明けたあとの森は、洗ったようなみずみずしい緑にあふれていた。

 壁に取り付けられた横長の窓を開け、ララはまぶし気に目を細める。白く美しい朝の陽ざし。こういうときこそ、溜まった家事をやる絶好のタイミングではないか。


 ちらと後ろを振り向くと、鳥はソファベッドの上でひっくり返り、ぶうぶうと寝息をたてていた。今はまだ早朝、いつもならララも二度寝の寝返りを打つところだ。しかし、嵐の明けた爽やかな静けさに意識が醒めてしまい、なんとなくベッドを降りて、窓の外を覗いてみたのだった。

 鳥が起きる気配はない。しめた。今のうちにやることを全部やってしまおう。


 ロフトベッド下のスペースには、ソファ周りと同様、棚が作りつけられているのだが、その横に空いたちょっとした隙間にランドリーバスケットを収納している。取っ手のついた籠で、青いギンガムチェックの布が貼り付けてある、かわいらしいデザインだ。今、そのなかは白いブラウスや下着、タオルや布巾で溢れかえっていた。特にタオル類が多い。鳥が来てから使う頻度が高くなってしまったのだ。


 ララはランドリーバスケットと桶を引っ張り出して両手に抱え、抜き足さし足でソファの前を横切る。その時、黒い毛玉がごろりと動いた。


 気づかれた!


 ――が、鳥はそのまま、「ケッケッケッ……」とむにゃむにゃつぶやく。ご機嫌な寝言だ。ほっと胸を撫でおろして、そろそろと車の扉を開けた。

 鳥に気づかれれば、またついて来ようとする上に、変に手伝おうとして川に落っこちるかもしれない。そういった事故が起きないよう、鳥が起きる前に済ませたかった。


 バスケットと桶を抱えながら川辺へ移動する。足元に広がる草花はしっとりと濡れ、川沿いの石は雨水を被った姿のまま、つやつやと光っている。油断しているとつるりと滑ってしまいそうだ。


 バスケットを地面に置き、桶で川の水をすくう。嵐の影響か、水の流れが少しはやい。ますます、鳥が寝てくれていて助かったと思う。

 用意しておいたエメラルドローズの洗濯石鹸を桶の中で溶かして、タオルや服を洗っていく。押し洗い、もみ洗い……今では魔動で動く洗濯槽も開発され、徐々に普及しつつあるのだが、この車中泊生活を続ける限り、それを使うことはないだろうなと思っている。


 洗濯槽は、中に洗いたいものを放り込んでレバーを引くと、水の魔導石が反応して水を生み出し、火と風の魔導石で水流を動かして中の洗濯物をかき回す、という仕組みらしい。それぞれの魔導石の出力調整になみなみならぬ苦労があったと、新聞には報じられていた。だがこの製品は高価な上、故障も頻繁にあるようで、まだまだ普及には程遠いのが現実だ。そのあたりは魔動車と事情が似ている。


 でも、そういう利器を使いだしたら今の生活の良さがなくなってしまうだろうな、とララは思っていた。進んで苦労するのが美徳というわけではないが、旅の情緒というのだろうか、そういったものが消えて味気ない旅になる気がするのだ。だから、例え使い勝手が格段に向上し、携帯コンロのように安価で市場に出回るようになったとしても、きっと使わないまま生きていくだろう。


 洗濯は順調に進み、すすぎ待ちの衣類が積みあがっていく。次にララが手に取ったのは一枚のハンカチだ。これは街へ出るときによくポケットに忍ばせているもので、ダイヤモンド風にカットされたガラスの石が隅に縫いつけられている。旅路に寄った町で目に留まり、そのかわいらしさに迷わず購入したもので、今もお気に入りなのだ。

 ふんふんと鼻歌を歌いながら丁寧につかみ洗いをしていると、ふと、本能的にララは目を上げた。音がしたわけでも、何かが見えたわけでもないのだが、ふいに気配を感じたのだ。果たして、ララが見上げた空のかなたから黒い影が猛スピードで飛んでくるのが見えた。


 それは翼を広げた形をしていた。距離からしてもあまりにシルエットが大きい。もちろんハヤブサ便ではない。というより、普通の鳥ではない。その異様な姿に、頭の中で「モンスターだ!」という警告がけたたましく鳴り響く。その飛行は恐ろしい速度で、瞬きすれば瞬間移動したのかと勘違いするほどすぐそこまで迫っているのだ。

 車は近くなのだからと、油断していた。いつも持ち歩いているポーチはここにない。光玉や煙幕玉、雷撃バリアが手元にない――それはララをフリーズさせるに十分すぎる現実だった。


 翼を広げた巨大なそれは、翼の端から端までゆうに魔動車二台分はあった。それが速度を落とすことなくまっすぐこちらに迫ってくる。完全に真っ白になったララめがけてぐんと近づき、激突する直前でララは我に返り、頭をかかえて転がった。――間一髪、巨鳥の鋭い鉤爪は何もない地面を深々とえぐる。まもなく、その大穴からぷすぷすと焦げ臭い煙が上がった。凶悪な形の趾足しそくに、地面を焼く熱――間違いなく、モンスターの成せる業だった。


 その場にしりもちをついたまま、こわばった顔で巨鳥を凝視する。その姿はどことなく見覚えがあった。といっても、以前冒険者ギルドの関係者だったとき、ちらりと習っただけにすぎない。直接見たことは一度もなかった。


 巨鳥が首をもたげ、ララを見据える。その眼は血走り、獰猛な光を帯びていた。次の瞬間、嘴を開き、グワアアアァと空気を打ち割るような凄まじい雄たけびを上げた。あまりに強烈で、空気ごと体を引き裂かれるような感覚がした。


 恐怖など感じる暇もない。ララの頭には様々なことが次々に浮かんでいた。死ぬかもしれない……楽しい車の旅が終わるかもしれない……やっと見つけた自分の生き方が、こんなにあっけなく終わる……もちろん覚悟はしていた、旅をすると決めた時からずっと……そうだ、あの子……あの鳥はどうなる……鳥も餌食になるのだろうか……人間の都合に振り回された哀れなあの鳥も……


 鳥のことを思い出した途端、フリーズしていた頭がすっと動き出した。なぜこの巨鳥はここへ来た? まっすぐ、なんの迷いもなくここへ? あんな空のかなたから? もっと目に付く餌はほかになかったのか?


 考えるているうちに、巨鳥がぐるりと首を巡らす。そのとき、巨鳥の首の真っ赤な羽毛がめくり上がり、合間からきらりと光るものが見えた。硬く涼やかな、人工的な反射光……


 ララははっと息を呑んだ。首だけではない、巨鳥の体のいたるところに光るものが取り付けられていた。ダイヤの首飾り、ルビーのイヤリング、サファイアの指輪、王冠まで、すべて人間の身に着ける高価な装飾品なのだ。

 記憶のなかのモンスター図鑑がぱらぱらと捲れていき、ひとつのページでぴたりと止まる。燃えるような羽毛の巨鳥――ハイース・ガラ! 確か、絶滅が近いと囁かれているモンスターのはずだ。成鳥の大きさは……そうだ、おそらく、目の前の巨鳥はまだ若い方だ。成熟すれば体長はあの一・五倍に膨れ上がる。体が巨大すぎてまともに育つこと自体が珍しく、さらに卵も一つしか産めないために必然的に絶滅へ向かっているという……そして、彼らはなぜか、光り物を好むのだ。異常なほど目が良くて、鴉の数倍も執着心が激しい……


 やっとのことで思い出し、顔面蒼白になるララの目の前で、巨鳥はぐるりと辺りを見回し、地面に放り出されたハンカチに目をとめた。きらり、隅に飾られたイミテーションが陽に輝く。かわいらしい、お気に入りのハンカチ……王都で絶賛ブーム中のブランドが出しているというハンカチで、雑誌で見かけて急いで駆けつけたもののとっくに売り切れており、失意のさなかに田舎へ立ち寄った際、出店で奇跡的に発見し、即座に買った一品だった。


「ちょっと、待ってください!」


 なぜ、どうして……そのまま息をころして草原の一部になっていればよかったものを――気づけば、そう声を張り上げていた。鳥が嘴の先に加えた小さなハンカチを見上げて、ララは立ち上がる。


「それ、やっと見つけたんです! お気に入りなんです、すっごく大切なんです、返してください!」


 たかだかハンカチの一枚くらい、くれてやれば命は助かったかもしれないのに、なぜかムキになっているのだろう。相手はモンスター、自分は丸腰の一般人なのに。


 巨鳥の獰猛な瞳がうるさそうにララを捉える。ぶうん、と鼻息をもらすと、たちまち熱風が吹きつけ、ララの全身を吹き飛ばしかけた。


 やってしまった――もう何もかも遅い。ほんとうにもう、ただ、やけくそだった。


「あなた、たくさん持ってるじゃないですか! ダイヤとかルビーとか……わたしのそれ、イミテーションなんですよ。言ってしまえば偽物ですよ! 偽物とわからずにあんなに一目散に飛んできて、残念でしたね! さあ、そうとわかったら返してください、ほら、ほら!」


 だめだ! と冷静な自分が悲鳴を上げているが、もう後に引けなかった。大切なハンカチが、限定でもう二度と手に入らないお気に入りの一品が、鋭いくちばしに今にも裂かれそうになっているのがこうも許せないなんて、自分で自分の執念に驚いてしまう。


 巨鳥の眼が、うるさそうに細められる。くちばしの先にハンカチをくわえたまま、ぐらりと脚を持ち上げた。ララを踏みつぶそうというのだ。巨鳥の挙動で川辺は悲惨なことになっていた。洗濯物を入れていた桶が倒れ、中身がほとんど川へ流れてしまっている。それを見て、恐怖より怒りが強く沸き起こる。

 だが、実際問題、対抗するすべはない。


 ララは身を固くし、反射的に川のなかに転がり込む。遅れて巨大な脚がずうんと大地に沈み込んだ。じゅう、と熱気が宙にのぼる。熱にプレスされた草地を見て、今さら恐怖心が戻ってきた。


 どうすればいい? どうすれば……こんな巨体、雷撃バリアがあっても少ししかもたないかもしれない。どうにかして車に戻れても、あんな速さで追われては追いつかれておしまいだ――


 頭の中でほんの少しの可能性をさがすララと、その可能性を絶望で覆すララとが言い争っている。おしまいだ――冷たい川のなかに這いつくばって、ララは色味を失った瞳で巨鳥を見上げていた。


 そのとき、視界のはしで、黒い何かがしゅっと飛び出した気がした。あまりにすばやいので、気のせいだと思ったが、次の瞬間、巨鳥の長い首が勢いよくドスンとくの字に折れ曲がる。


「ケケーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!」


 聞き覚えのある奇妙な声が、聞いたこともないような凄まじい叫び声となって響き渡り、真っ赤な体躯がぐらりと傾く。あまりに突然のことに巨鳥は目を剥き、そのまま体勢を崩してしまった。ずうん、と地面が大きく揺れる。


 小さな黒い毛玉がばさばさと羽音を立て、地面に着地する。真っ黒な羽毛、小さな脚、羽毛からのぞく白い顎。――きらり、首からさがった細い鎖と小さな結晶……


「あ、あなた」


 ララはようやく声を絞り出した。小さな鳥がこちらを振りむく。ちらとララを見、びしょぬれではあるが無事であることを確認すると、ふたたび巨鳥へ向き直った。


「ケケッケケッケケーーーッ!」


 脚の怪我も翼のテーピングもなんのその、鳥は翼を広げて飛び上がり、倒れた巨鳥の首元めがけて落下する。途中でくるりと旋回し、鉤爪のついた脚を突き出して、猛烈な勢いでドスンと蹴り上げた。

 グワアアアァ、と耳をつんざくような悲鳴が上がる。巨大な嘴からハンカチがひらりと落ちて、ララの目の前にぽちゃんと落ちた。急いで手を伸ばし、それをつかみ取る。ハンカチは無事だ。破れもほつれも見当たらない。かわいらしいイミテーションも無傷だった。


 鳥に同じところを二度も蹴られて、さすがの巨鳥も目を回してしまったようだ。死んでしまっただろうかとも思ったが、低いうなり声が聞こえるので伸びているだけらしい。


 ばさり。眼前に鳥が着地する。誇らしげに翼を広げ、ララを見上げる。羽毛から覗く小さな唇を吊り上げ、にっと笑って。


 ララは何度も何度もまばたきした。今目の前で起こったことが到底信じられなかった。鳥は怪我をしていたはずだ。まだ赤子で、非力な存在のはずだった。自分は夢でも見ているのだろうか?


 いや、よくよく思い返せば片鱗はあった。彼はそのちんまりした脚でソファを軽々と動かしていたではないか。ララのポシェットを脚で引き寄せて動きを止めたこともある。その小さな体躯の割に考えられないような脚力の持ち主なのは、なんとなくわかっていたことではないか。だが、これほどまでとは……


 ララは川に這いつくばったまま、しばらく動けなかった。やっと頭の動きが現実に追いついてきたので、ひとまず口を開く。


「ありがとう、ございます」


 困惑と疑問で頭がいっぱいだが、鳥がモンスターを倒してくれたことだけは紛れもない事実だ。


「ごめんなさい、ちょっとその……混乱していて」


 鳥は翼をおろし、きょとんと首をひねる。自分は当然のことをしただけなのに、何を混乱しているのだと、そう言いたげである。


「えっと……助けてくれたんですよね」


 鳥がうなずく。「ケッ」と鳴いた。それがなにか? といった感じだろうか。


「あの、怪我は……」


 鳥はもう一度きょとんとし、ああ、と言いたげに翼を広げてみせた。「ケッケッ」と何かを訴えながら得意げに脚も上げてみせる。腫れも変色も、何もかもが元通りに治っていた。完治だ。――はやすぎやしないだろうか?


 言葉にならない感情を全部のみこんで、ララはようやく、「それはよかったです」と口にした。何はともあれ、ふたりとも無事だったのだ。


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