第10話 それは無上のソース

「もしもし」


 鳥のそばに寄って、囁くように呼び掛ける。鳥は口元をだらしなく開けて気絶していたが、ぴくりと体を揺らして、我に返ったように飛び起きた。


「ケッ……ケケッケッ」


 何事か、必死にこちらへ訴えている。抗議している、ようにも見える。しかしララにはさっぱりわからない。


「気分が悪いんですか。車酔いしちゃったんですか?」

「ケケケケッケーッ!」


 そういうことじゃない、とでも言いたげに声をあげていたが、ララの本気の心配顔を見せられるうちに鳥も声を落とし、「ケッ……」と諦めたように口を閉ざした。


「そうだ、これから食料調達に出掛けようと思いますけど、あなたは……どうしましょうか」

 言いながら、壁にかけられたポシェットを肩にかける。


「怪我をしてますし、ここで待っていてもらう方がいいと思いますけど」と言い終わらぬうちに突然ポシェットがぐいと引っ張られ、危うく机につんのめりそうになった。


「わっわわっ」


 見れば、鳥が脚を突き出し、鉤爪でポシェットをぐいぐい引っ張っている。小さな体に見合わない、意外に強引な力だ。「な、なんですか!」とララはポシェットを抑えようとするが、空いた口に鳥が頭を突っ込み、そのままよじよじと身をよじって、全身すっぽりと入り込んでしまった。


「あ、あの……」


 ララが覗き込みかけると、すぽん! と鳥が顔を出す。サイズ感が驚くほどちょうどいい。鳥も満足げである。


「まさか、ここに入ってついてくるということですか」

「ケケッ」


 鳥の口元がニッと笑った。満足げだ。


 外に出て、広場を囲む木々の間に足を踏み入れる。ララは腰にエプロンをつけ、左腕にかごを下げていた。

 革の靴底にやわらかな土の感触。空気は少しひんやりとしているが、澄んでいて心地がいい。妖精たちも綺麗な空気を求めてここに棲みついたのかもしれない。


 木の根元や、草の生い茂ったところへしゃがみこみ、手ごろな木の枝を差し入れてかき分ける。植物の中には、直接手で触れると危険なものもあるのだ。そうして、食べられそうな野草や、薬の材料になる草花を見つけると、少しずついただいていくのだった。


「わあ、小黄白草オギシロソウがこんなに」


 白と黄色に咲き乱れる一面の小花――に見えるものは、実は白と黄の小さな葉を交互につけた草である。絞り出したエキスは塗り薬となり、根や種子は煎じ薬となる。一般的な薬用植物なのである。鳥の脚や翼に塗ってやった薬も、主な成分は小黄白草だ。


 ララは小黄白草の密集するなかにしゃがみこんだ。せっかくなので少し多めに採取したい……という気持ちもあるが、ぐっと抑える。自分は妖精たちに宿泊を許可されている身だ。好き勝手なことはしてはいけない。端の方を少しだけ拝借し、籠に入れた。

 ふとポシェットに目をやると、鳥は翼で顔を覆っている。羽毛で見えないが、きっと人間そっくりな鼻がそこにあるはずだ――と考えて、ララははっと気がついた。申し訳なさげに立ち上がる。


「ごめんなさい、におい、苦手ですよね」


 羽根の合間から、への字に曲げた口元が覗く。「ケ……」と力ない声がすべてを物語っていた。ララは急いでその場から離れてやった。


「さて……」


 歩きながら、ふとこぼす。


「あなたは一体、何を食べるんでしょうね」


 鳥は木の実や虫を食べる、という一般的な認識がある。種によっては魚も食するようだが、この鳥はどうなのだろう。


「とりあえず、めぼしいものを拾っておきましょう」


 ひとりつぶやいて、木の根元にかがみこむ。ころころと丸い形のマリノミ、しし唐のように先の尖った赤いシシトウモドキ……自分の持てる知識の範囲内で食べられるものを拾い上げていく。ついでに、土の上にこんにちはした土虫なども採っておいた。籠はいっぱいだ。


「これだけあれば、結構なごちそうのはずですよ」


 ポシェットに向かって言ったが、応答はなかった。鳥は顔をうつむけている。顔が完全に羽毛に覆われているため、ほんとうにただの毛玉にしか見えない。気分でも悪くなったのか、怪我の具合が悪いのか――心配になり、じっと耳を澄ましていると、ぶうぶうと微かな息づかいが聞こえてきた。


「……寝て、る?」


 気絶しているときとは違う、安心しきったような穏やかな寝息だ。


 ララは、無意識のうちに手を伸ばしていた。指先で、遠慮がちに、羽毛に覆われた頭にそっと触れる。

 持ち上げたり、受け止めたり、鳥の体にはさんざん触れていたというのに、まるで初めて触るかのような緊張があった。どきどきと、淡い期待――いったいこの鳥に何を期待しているというのだろう? だが、柔らかい羽毛に触れた瞬間、ララの胸のうちに温かな何かがすみずみにまで広がるような感覚があった。


 その穏やかな心地のまま、ララは手のひらをゆっくりと動かす。ポシェットの中の重み――初めはどうしてこんなところに入るのかと、半ば呆れていたというのに、なぜこんなにも……こんなにも、安堵しているのだろう。


「……帰りますよ」


 優しい笑みが口元に浮かんでいるのが、自分でもわかった。左手の籠と、腰のポシェットを、大切に車まで持って帰る。



 ソファの上のポシェットがもぞもぞと動き、黒い毛玉が顔を出した。羽毛がのそりと持ち上がり、小さな頬と顎が現れる。鳥は半分寝ぼけた様子で、すんすんと鼻をきかせた。ぐつぐつと何かが煮える音と、食欲をそそるなんともいえない香りが部屋のなかに充満している。

 見れば、キッチンに薄桃色の髪と白いスカートの後ろ姿が見える。ふんふんと鼻歌まで聞こえてくる。


「あれ」

 ララが振り向き、いそいそとやってきた。

「目、覚めたんですね。よかった……」


 鳥は口をぽかんと開け、呆けたように動かない。


「寝ぼけてます?」

「ケッ」


 突然鳥が動いた。ポシェットから這い出て、ばさばさと翼を動かそうとする。が、脚や翼を固定されているのでうまく動かせない。


「どうしたんです――あ、ちょっと!」


 それでも鳥は身をよじり、ソファの端までやってくる。そのままずるりと上体が滑り落ちた。


「ああっ!」


 反射的に手を伸ばす。手からおたまがふっとび、ララは再びお腹から床にダイブする羽目になった。

 間一髪、両手のひらに鳥がぽすんと着地する。カランカラン、遅れておたまも床に転がった。

 床に這いつくばったまま、ララはキッと顔を振り向ける。


「もう、いきなり何をするんですか! あなたは怪我人、いや、怪我鳥なんですよ! それを、わけもなくソファから飛ぶなんて、正気ですか!」


 めずらしくすごい剣幕だ。しかし鳥は動じていない。それどころか、ララの手のひらからぴょいと降りて、脚をひきずりながら床を這った。

 床にはおたまが転がっている。焦げ茶色のソースが端の方にへばりついているのを見つけると、鳥は顔を近づけてすんすんと鼻を動かす。そして小さな口を開け、ソースをぺろりと舐めた。


「!!」


 その瞬間、鳥の尾がぴんと立ち、全身の羽毛が逆立った。


「ケケーッ!」


 電撃に撃たれたようなけたたましい声を上げる。そのまま、石化したように動かなくなった。


「……ど、どうしたんです……」


 か、と言いかける前に、鳥はぴくりと意識を取り戻し、猛烈な勢いでおたまに顔を突っ込んだ。顔を覆う黒い羽毛も、そこから覗く小さな顎も、べったりとソースに塗れているがかまわず、おたまについたソースを必死に舐めとっている。


「まさか……」


 ララは、かすかな推測と期待からそろそろと立ち上がり、キッチンの引き出しからスプーンを取り出した。鍋からビーフシチューをすくい、小皿によそう。その間にも、鳥はおたまに顔をへばりつけている。きれいになったおたまをひっくり返し、まだ残っていないかと意地汚く見回している鳥の方へしゃがみこみ、ララは小皿を差し出した。

 鳥が瞬時にこちらを向く。すん、と鼻をきかし、小皿に気がつくと、ソースにまっすぐむしゃぶりついた。


「び、ビーフシチュー、気に入ったんですね?」


 鳥がビーフシチューなど食べられるものかと思うが、そもそもこの鳥は人間の顔を持つ奇怪なモンスターだ。鳥はかくあるべき、という意識こそ捨てるべきかもしれない。


「おいしいですか?」


 訊くまでもない問いかけだが、そう訊ねずにはいられなかった。鳥は、ララが今までの人生で見たこともないほどおいしそうに、がめつく、意地汚く、夢中になってシチューをすすっているのだ。


 鳥がふいに顔を上向ける。シチューまみれの羽毛に埋もれて見えないが、その眼はあきらかにララを見ていた。


「ケケケケッケケーッ」


 上機嫌な声で感想を教えてくれる。あっという間にきれいになった皿を足で押し返し、もっと寄越せと催促する。ふふふ、と笑いをこぼしながら皿にシチューをよそってやった。今度は小皿でなく、ララと同じ木の深皿で。

 妖精に作った余りのビーフシチューは、ふたりの食欲によってあっという間に空になってしまった。


「わたし、ビーフシチューが一番得意なんですよ」


 けぷう、とお腹を出してひっくり返っている鳥を眺めながら、ララは呟いた。


「孤児院でもすごく評判が良くて。わたしが食事当番になると、決まってビーフシチューがほしいって言う子たちがいて……人数分つくったら高くつくのにって、先生たちも苦笑していて」


 床にしゃがみこんだまま、懐かしむように頬杖をつく。


「あなたの好物、ひとつ見つかって良かったです。これからも、ちょくちょく作ってあげますね」


 鳥は腹を出したまま、満足げに片羽を上げた。りょうかい、とでも言いたげに。そしてぱたりと落ちた。




 結局、鳥は虫や木の実を口にしなかった。食べられないのか、食べたくないのかわからないが、ララは虫を外に返し、木の実類を瓶に入れて保存しておいた。


「さて」


 まだひっくり返っている鳥ごとテーブルを動かし、ソファを脇へどけた。空いた床板を持ち上げて浴槽をあらわにする。風呂の準備である。

 ホースで湯を溜め、鼻歌を歌いながら次々に服を脱ぎすてていく。それから、ララは寝転んでいる鳥の腹をつんつんと突いた。


「もしもし、お風呂に入りませんか」


 鳥は気だるげにからだを起こす。そして、素裸のララの姿にきょとんと首をかしげた。


「お風呂です。からだ、汚れているでしょう。洗わないとですよ」


 そう言って有無を言わさず鳥を持ち上げる。鳥はおとなしくされるがままになっていたが、自分の真下に湯気の立つ湯があるのに気付いた途端、焦ったように「ケケケッ」と脚をばたつかせた。


「こら、だめですよ。ちゃんと清潔にしないと、怪我も治らないんですから!」


 と、桶に湯を汲み、その中に鳥を入れてやった。


「熱いですか? 一応、いつもよりぬるめに入れたんですけど……」


 桶の湯は鳥の腹のあたりまですっぽり覆っている。両足をちょんと前に突き出して座りながら、鳥は返事もせず、ぼんやりとしていた。

 やはり少し熱かったのだろうか、怪我にしみるのだろうかとララが手を伸ばしかけたその時、鳥の体がゆらりと後ろへ傾いた。湯桶のへりに後頭部を載せ、翼もくたりと広げてもたせかける。羽毛の下から顎がのぞき、小さな唇がだらしなく開いた。

 完全にくつろいでいる。まるで小さなおじさんだ。


「ふふ、ふふふ……」


 ララは肩をゆらしながら笑いをこらえていた。


「お湯、気に入りましたか」


 鳥は一言、「ケ」と短く鳴いて、桶の中でのびていた。桶は湯の中をゆらゆらとただよい、ゆりかごのように鳥を癒している。


「もっといいもの、見せてあげますよ」


 ララは車のハッチを開けてやった。ガポン、と音を立てて開いたハッチの向こうに、濃い藍色の夜空が見える。


「ほら、あんなに星がくっきりと! ここは空がすごく澄んでるんですね」


 そう言ってから、ふとララは首を傾げる。

 確かに、ハッチの向こうにはこれ以上ないほどたくさんの星がまたたいている。小さなものから大きなものまで……そして、それらは時折、点滅するように光り、左右へわずかに揺れ動くのだ。


 この光は、星じゃない。


 ララは目を見張り、立ち上がる。すると、まるでララの目線に気づいたように光は周囲に散ってしまった。ハッチの向こうは元通りの夜空が広がっている。


「……妖精……?」


 不思議な存在だ。人間の味方でも他種族の味方でも、モンスターの味方でもない。その生態は完全なる闇につつまれていて、専門の研究者はいるものの、その探求心を弄ぶように決して正体を明かさない。

 彼らは人間を毛嫌いしているのだ、と言う者もいる。実際、その説は有力で、どこにでも流布されている。ララも、そうかもしれないな、と思っていた。

 今日までは。


「なんだかわたしたち、歓迎されているんでしょうか……」


 もう一度湯船につかりながら、ララが呟いた。鳥の桶はゆらゆらと周囲をただよっている。


 今日はちょっぴり不思議な日だった。ちょっぴり不思議な、夜だった。



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